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この話題に私も一言

マスコミ戦争の時代 と マスコミの功罪 (2 

               

 その8)
  

  
竹村さんの 『情』 と 『報』 
                  
 もう、かなり以前のお話になるけれど…
 当時…テレビでおなじみの評論家の
竹村健一さんが、ある日のレギュラー番組の中で、『情報』 という言葉を分析しておられ、その中に、とても興味深く印象に残る内容のものがあり、忘れられない一コマになっている…あの、『湾岸戦争』の頃のお話であるけれど(1991年・ブッシュ第41代大統領政権の時)


 竹村さんは、『情報』という言葉を分析してみると、「報」は対照的である、と仰った。

 
[情] 
     
・情緒的  ヒューマン   ソフト  テレビ  漢方医学的 
 
[報]
     ・理性的  エリート     ハード  新聞   西洋医学的

 
 これを元に、『湾岸戦争』について分析してみると、

 
[情]
     ・策略的  単純でない。 理論的でない。 
    (イラク軍側的)
 
[報]
     ・アメリカには 『忠臣蔵的発想』 は通用しない、単なる『だまし討ち』とし
      てしか取らない。
か、それだけ。      (多国籍軍側的)

 
というように。

 そして
竹村さんは番組の最後で、

 
『アメリカは、の面をもう少し考えてみるべきだろう…』

 
と、結ばれた。

 
『再臨のキリスト』 は、

 『アメリカは攻撃すべきではなかった…』 と仰ったという。


  しかし、私たち一般人に言わせると…あの場合、アメリカはそうするより仕方がなかったのであり、私たちはイギリスに対する『アメリカの友情』 を褒(ほ)め称(たた)えたものであったが…!?

 
しかしそれにも拘らず、再臨のキリストはそう仰ったという。

 
人間というのは、「知」の前に「情」が先に来る存在ではなかったのか…?

 例えば外国にいるイラク人、あるいはイスラム教徒と呼ばれる人たちは…自分たちがたとえアメリカに、また日本に、というようにイラクの外で暮らしていて、周りが総て異邦人に囲まれている中にあっても、イラクが不利とみると…自分が生活をしている国であるのにも拘わらず、すべてはイラクへと、つまり自国に思いが行き、理屈抜きで祖国を擁護しようとする…つまり、
「知」よりも「情」が勝っているのだ。

 また、あの戦争中の日本在住のイラク大使の
愛国心…これには本当に感動するものがあった。どう見ても私には、それは建前とは思えなかった。周りには…いわば敵しかいないという情況の中で…一心になって自国をかばっておられたのだ。
 これは、在日アメリカ人たちにも見られる事であるが、それぞれに本心から祖国・母国を擁護する…外国人って、皆、そうなんだなあと思い、私だったらとてもああは行かない、と。日本人として気が重い事である、と。
東洋思想を尊重しながら、西洋思想を褒め称えるというのは、なんとも矛盾した話だとは思いながらも、そんな事を考えたものだったが…
 だから、これには今一つ、判らないものがあった。

 しかし、
『再臨のキリスト』 のみ言(ことば)は絶対だ。
だから私は、よくよく考えてみた。


 旧約聖書によると…

 
アベルは、『復帰摂理歴史(=やり直しの歴史)の法則』において、『善の立場』 に置かれていながら、『悪の立場』 に置かれたカイン『怒り』を買い、殺された。

 また、次の世代において…
『悪の立場』 に置かれたエソウは、『善の立場』 のヤコブが帰郷するのを待ち受けて、殺そうとしていた…つまり、ヤコブの
『心づかい』 がなかったら、殺していた。 (ヤコブ=のちに神からイスラエル民族の始祖の地位を授かる。)

 
『悪の立場』カインエソウも…『善の立場』 のアベルやヤコブと同様、『自分たちの神様』の前に、彼らなりに精一杯であり、一生懸命だったのだ。

 アダムとエバがまだ未成年にある時…神の子人間の成人期前の「知の育成」をして行かなければならない使命を持った「知の天使長」(=仏教でいうところの守護霊・指導霊のような存在の中の一つ?)の
「悪なる誘導」に負け、人間始祖としての人格完成に失敗したためそのやり直しをするための歴史を引き継いだ息子のカインとアベルが、再び失敗などしなかったら「やり直しのための歴史」は、なんと延々21世紀にまで引き継がれるなどという事なく、その時点で終わっていたのに…ともあれ、こうして復帰摂理の歴史は始まって行った。 
 (日本神話に登場するあの、イザナギ・イザナミノミコト…ヤマタノオロチ…の話にもこれと共通した内容、つまり
「追放・やり直し」の誕生秘話が存在するけれど…もちろん、「聖書」には及ばないものがあるとしても、ここには何か共通した、とても感慨深いものがあるように思われる。) (日本神道には旧約聖書の創世記の部分において共通するものがある、という説がある。)
 
 
神様は、ご自分の分身である人間(アダム)が、成長の途上において、神(親)が干渉出来ない「間接圏内」(=始祖アダム自らの力で自立心を養わなければならない期間)にある時に、『サタンの誘惑』(学問用語)に遭い、『堕落』(学問用語)したために(=原罪を生む) 、それを救い出し・取り戻すために『復帰のための摂理』 を置き、それを次の世代の人間に託された。そしてその「代表に置かれた人間」が、その摂理に失敗すれば…一定期間(成長期間)を置き…また次の世代において「代表人物」を立て・『復帰のための摂理』 を置き…人間が失敗するたび毎に絶やす事なく「やり直しの摂理」を繰り返して来られた…(形としては、子供の喧嘩に親が条件を与えて仲裁に入ると同じ理屈 ?)

 つまり、その
摂理』を克服するためには、人間はまず初めに何をおいても、『善』『悪』にはっきりと分かれなければならないと『善の立場の人間』に指示をし・指導し…そして、 『善の立場の人間』と『悪の立場の人間』に分断された(どっちつかずの中間は要らない)。これで初めて『復帰の摂理』はスタートして行く事が出来るのであり、どちらが欠けても復帰の摂理は成り立たないもの(=人間の幸せは取り戻せない)とされたのだ…古くは、「供え物を割(さ)などして象徴的に…そして新しくは、「国家を分断する」事によって必ず行われて来た、神の摂理であったのだ(=サタン分立)。仏壇・祭壇の両側に置く「献花・御供え物」の始まりなのだろうか?(=象徴的) そしてその[献花・御供え物」を現代で捉えれば…その人の・その国家の言論・思想・行動等々に当たるものと考えたら良いだろうか?(=実体的) 
 神が意図的に与えたそれらのものを、それぞれがどう受け止め・どう行動するのかという…! 
 (旧約聖書には…神はわざと
カインの捧げ物は避け、アベルの捧げ物のみを受け取られた…と記述されている。そして特に、アベルのその後の行動には期待を寄せられた!)


 この事からしても、思うに…

 アベルヤコブも、単に『善の人』ではなく、あくまでも『善の立場』に置かれているに過ぎないのだ、という事。

 そもそも、
善の立場悪の立場というのも…元はといえば、兄弟として生まれた時点において、

 
『兄であったため…』 『弟であったため…』

 という…それだけの理由から打ち立てられたものであるに過ぎないし…兄の立場とはいえ、神様の指導など受けていないカインと
エソウには、天の摂理など判るはずもなかったのであり…
 この
「弟だけを指導する」というのも神様の意図的なものであり…わが子人間誕生の始祖の立場に立つ「兄」に対して、『自立心を育てる』というのがその目的だったのであり、そうする事によって、子々孫々に至るまで如何なる誘惑にも負けない、この兄(始祖)自らによって養われた『自立心』が未来永劫、全人類に引き継がれて行く…というのが、神様の復帰摂理の目的であり願いであり、だった。

 
元はといえば、人間は一人残らず神の分身なのだ。『善の立場』 に置かれた人間は、また国家は、とかく

 
『救われるべきは、自分たち(善)だけ。』

 と思いがちであるけれど…そうではないのだ。

 天宙(=地上と霊界) に存在する全ての人間を救おう(=育てよう)とされるのが、人間の親である神様なのであり…私たちが、どんなにお互いを悪人呼ばわりして、自らを正当化しても、神にすれば、人類を一家族として創造しておられる事には間違いないのだから、一家の中に、
善人と悪人が存在するという発想は絶対にあり得ないのであり…たとえこの地球上の、行った事も・見た事もない、遥(はる)か彼方・異郷の地に住んでいる人々であろうと…その地に生える植物、また動物、鉱物であろうと…窮極にはすべて一家族であり、この「私」のために存在してくれている…「私」も彼らのために存在する…という。「一人は万人(万物)のために、万人(万物)は一人のために」。
 どんな強国・先進国家であっても…自国の力だけで成り立ったものではないという…そのように、初めから
天宙の仕組みは成されている。

 そして…
『善の立場』 という、神様の指導を受け、栄光の…というよりも…責任ある、あまりにも重要な座に置かれているにも拘わらず…

 
『悪の立場に置かれた人間の…その深淵の苦しみとプライド…』 を理解する事が出来ず、表面や外面だけを見ての判断』 を下す…そしてその失敗を延々として繰り返す…この延々として繰り返されて来た「復帰摂理歴史の失敗」は、『善の立場』 の人間がもたらしたものであり…
 その結果が…
『アダムとエバの誕生』 という人類の始まりから…そして、21世紀の今日につないできた、この被造世界の実態である…という事。 (聖書上では、1日=24時間として述べられていない。また重要な・核心的な部分は比喩<ひゆ>で語られている場合が多い。)

 だから…
『善の立場』 『悪の立場』 というのは、あくまでも『堕落』(学問用語)を克服し、『理想世界』(=地獄を一掃した世界 )を目指すための一時的なプロセスに過ぎないのであり、『神の意図的』 なものであるという。

 武力でもってして完全に
『悪』を屈服させ、彼らを心から納得させ・救い出す事が出来るのかと言えば…それはやはり、彼らにしてみれば無理な話であり…意地もあれば、プライドもある…「悪の枢軸」だとか、「圧力」だとか、「制裁」だとか…これはいったい何なのだ !? という…彼らが何より、もっとも忌み嫌う言葉 ! (聖書…ことばには いのちがある )  

 私が彼らの立場であったなら…例えば『核』 などという、こんなものは持たないに超した事はない、と思うに違いない…でも…誰にも頼らない、自立した経済のためには、何処より先立って「理想の核がほしい !」 という、空しい憧れを抱くのかも知れない…『核開発』にしても、「何故、彼らが許されて、この自分たちは許されないのだ!」 という、憤怒な思いを抱くのかも知れない

 そもそも人間が 『堕落』という災難に出遭わなければ、今あるような
『旧約・新約聖書』は初めから存在しなかったし、その必要性もなかった。 キリスト教を始めイスラム、ユダヤ、仏教等々無数の全宗教も…釈迦の存在も・四大苦も…何より、初臨のキリスト・再臨のキリストの存在も…その『苦難の路程』 もあり得なかった。

  万に一つ在ったとしても、恐らくそれは…
キリストの必要性などない、釈迦の必要性などない、その目的は全く違った方向性を持つものであり、こんな…『悪』に悟られないため…『にせのキリスト』の出現を防ぐため(=現代における最重要ポイント・難題)…それらを意識した「比喩」(=直言ではなく、たとえ話)で書かれたような難解な・困難なものではなく…ひたすらわが子の未来を夢見た、善に満ちたもっと広々とした、単刀直入で希望に満ち溢れたものであったに違いない少なくとも、今のような形ではあり得なかった。
 
何より、
 
「神は存在するのか?  本当に霊界はあるのか?」
 などという愚論や発想は、初めからあり得なかった。神(親)によって創造された、この人間の生きる目的も…こんな改めて一から学ばなくとも、それらは誕生と同時に、その成長過程において自然のうちに・自動的に(今のような中途半端・バラバラ・もっともらしい…ではなく)、その人・その人の個性に準じて理解されるよう造られていただろうし…したがって、世界に存在する、あの悲惨極まりない宗教の闘争歴史などはあり得なかった。

 これは言い換えれば…人間が
『堕落』を克服するためには、もはや『キリスト=メシア』(=救世主) を通さなければ、神の元には帰れなくなったという事が言えるのであり…それは…あのクリスチャンの祈りにある、
 
『…キリスト(主)の御名(みな)を通して(=御名において)…』
 と、その
「祈りの最後」に必ず付される言葉で示されている事からも解かるように。

 しかしさらに…
成約時代という 『再臨のキリスト』によって、すでにこの『堕落論が克服された』今では、その時代的恵沢として、
 『…キリスト(主)の御名(みな)を通して(=御名において)…』
 
という、この部分の必要性はなくなり…私たちは、神様と直接対話の出来るという、
最高に恵まれた時代を迎える事の出来る、この21世紀にあるという事なのだ ! 

 (
克服された・勝利された…というのは学問的表現であり、神が与えた試練に対する、キリストの功績であり、地上の目の前の人々を・対象を…という事には即・つながらない、極めて未来的な意味を持ち、復帰の摂理によって未来のどこかにおいて必ずその功績実現化され証明されるという意味合いを持つという…


 
学問的に捉えれば…人間は堕落したために、万物の霊長の立場を失い、神と人間の関係も、旧約時代は「僕(しもべ)」、新約時代
「養子」とされ、再臨のキリストの誕生によって始まった、成約時代と呼ばれる現代になって初めて「実子」として扱われるようになった。
 神の摂理は特に女性には厳しく、洋の東西を問わず「男尊女卑」の時代もあったし、未だ存在する国もあるのかも知れない。

 ちなみに、
旧約前の時代は「僕の僕」であり、動物・植物・鉱物よりも低い立場に落とされ、かれらを崇(あが)め奉(たてまつ)らなければ、神(親)の前には進めない時代だった。そもそも教会というのも…また日本の場合でいえば、神社・仏閣・仏壇…またその中に存在する稲荷・狛犬・獅子吼・白蛇・鳳凰…霊山・霊峰・神木・神水・献花・御供え物・献金…また精進料理など…これらは全てその名残りであり…その時代・時代の神から与えられた「方便」(仏教用語)であり…

 そういえば昔は、例えば結婚相手などは自分たちで決めるなどという事は、ほとんどあり得なかった。結婚さえ許されないと受け止める
クリスチャンもいた。それが今では、自分たちで決めるのが当り前のようになった…この流れにも、何か関連したものがあるのだろう。

 この再臨のキリストというのは、仏教では『弥勒仏』、儒教では『真人』、天道教では『崔水雲』、また鄭鑑録(ていかんろく)と呼ばれる教えでは『正道令』などという呼び方で、神の啓示は成されるそうである。

 
新約聖書『ヨハネの黙示録』にも、終末になると
再臨主が現われ、各教会にある『七つの封印』を解きほぐされ、その『再臨のキリスト』の克服された摂理を条件(担保・犠牲)として、霊界の人々が皆、よみがえり、地上・天上のあらゆる宗教に『神の啓示』が成されるようになる、と説かれている。

 そして、例えば
『生長の家』では、W七つの灯台に灯がともり…Wとあり、また『法華経』では、W七宝の塔が空中高く舞い上がり、多宝如来が現われるWなどと言うように。

 そして、
全ての信仰においてのその集大成として、再臨のキリストみ言(ことば)も、最後の最後の「1章」を残し、その前編・後編において・『第1章〜第7章』『第1章〜(第7章)というように区分され・述べられている事からも理解出来る。

 したがって、これが全ての終結点とされるものではなく、また
完璧というものでもないと思うし、むしろ逆に、(アダムエバ以来の)「歩みの幼さ故に起きる課題」(=失敗の繰り返し)「復帰摂理の歴史」(=やり直しの歴史)からしても明らかな事実であり、「イエス様の処刑を始めとして、旧・新約聖書にも沢山・沢山述べられている事であり…真の地上天国・天上天国実現(学問用語)(=地上・天上から地獄を一掃した世界)のため、この前人未踏の地(=第7章)(=あらゆる信仰の最終目的とする、人間に与えられた5%の責任分担の克服・達成。親である神様さえも味わった事のない、天国)を目指して、神の摂理はまだまだ続くのではあろうけれど…。


 また、旧約聖書には…

 『善の立場』(弟の立場)
モーセは…神が、
 
モーセよ、私は必ずあなたと共にいる。』 
 
『わたしは、
パロ(悪の立場)(兄の立場)の心をわざとかたくなにする。
 
と仰りながら、モーセから絶対に離れる事なく導いて行かれたのにも拘わらず、不信に陥って行く(自分に従わない)イスラエル民族に対する血気を押さえる事が出来なかった…
 キリストの象徴として与えられた、「石板」を・「磐石」を・「杖」を…怒りに任せて谷底へ投げつけて壊したり、神の摂理に反して、
<一度だけ>打つべきところを、<二度も>打ち込んだり…と、エジプトの王パロの頑固さ」は神の「意図的」なものであったにも拘わらず、それを悟る事が出来なかった。

 (聖書には、重要な箇所は比喩
<ひゆ>で表現されている場合が多い。) (現代における『北朝鮮問題』は、その集大成。)

 
「短気は損気」と、言葉で片付ける事は簡単だけれど…『復帰原理の道』を歩むには、まず『外的問題』を整え(=組織・経済の確立)、そして『内的問題』(=情緒・信仰の確立)を克服せよ、という…凡人には想像も出来ない立場にあった、モーセ
 
 
モーセ=本物のキリスト(救世主)を世に送り出すための、模擬・モデルの立場にあった人物。「イエス・キリスト処刑」も、彼の失敗遠因となっているのであり、一部クリスチャンの説くように、初めから予定され・必然とされたものなどでは、決してなかった。
 思えば、石板・磐石・杖…また神の幕屋…神はいろいろな
方便を与えてモーセを導こうとされた。現代で言われる、あの霊感商法とか呼ばれるものの起源も、ここにその類似したものが隠されているに違いない。
 
現代においての、開拓・革命に苦しむ人たち…これらの多くは、神の意図である言わば、小さなキリストの立場として…このモーセ同じ道を歩んでいる人たちであるに違いない 
 逆に、いかに自分が重要な立場に置かれているかを確認・認識するという…目安・励みにもなる、このモーセという存在の重要性

 
旧約時代は、まだ 『キリストを迎える土台(条件)』 がなかったために、神が直接・人間を先導して行かれた時代であり、モーセ「後に誕生される、イエス様のモデルの立場」…その後にヨシュアの路程が存在し、彼がモーセ失敗を引き継ぎ・その土台を造る事によって、ようやく、イエス様の誕生に繋(つな)ぐ事が出来た。

 そして新約時代は、
神のひとり子(=唯一、直系・第一子・アダムの立場・神の代理)である 『キリスト(=メシア メシアはヘブライ語)の先導』 によって歩んで行った時代…しかし、イエス・キリスト処刑による摂理の失敗により、神はもう一度、キリストを立てなければならなくなった(=再臨のキリスト・成約時代)。

 
初臨のキリストというのは、『復帰の摂理』の究極の目的そのものであり・必然であったけれど、再臨のキリストはその摂理の失敗により、神がやむなく打ち立てられたものであり、決して必然ではなかった。モーセの失敗によるその『遠因』として、その可能性は大ではあったけれど。 21世紀の今日に至るまで、「モーセの失敗が、どんなに大きなものであった事か…!

 そして、その失敗の代償も…
 聖人に与えられるそれには、偉人・達人…に与えられるものとは違い(=一般感覚でもってしては考えられない)、モーセ個人の問題では済まされない、その後世において(=イエス様に始まり・再臨のキリストに終わる)、想像を絶する膨大なものがあったのであり…!!


 復帰摂理の歴史的同時性においても、古くは…イエス様が、本来の立場とは全く逆の「ナザレ人(びと)扱い」(=キリスト教徒の蔑称<べっしょう>)にされたのも…また現代史において、韓(朝鮮)民族が、これも本来の立場とは全く逆の・日本国による「賎民(せんみん)扱い」を受けたのも…その奥にはモーセの時と全く同じ」…何か、神の意図的な深いものが隠されていたに違いない。

 西洋のナザレ人東洋の賎民(朝鮮人)というのには、どこか酷似した…私たち現代人にはとても理解し難い凄惨極まりない、悲しい歴史が隠されているところを見ても、明らかだ。
 他にも…ナチス・ヒトラー(ドイツ)による、
『イエス・キリスト処刑の代償』としての…あの祖国までも失った、ユダヤ人の悲劇。 これらは全て神の復帰摂理の歴史的同時性の失敗の連続から生まれた惨劇であり…ヒトラーだけを「悪の立場」に置き・独裁者と捉えるのはあまりにも単純解釈であり…ヒトラーは、自分の置かれたその立場を徹底して守っていたに過ぎないのであり…むしろ責められるべき対象は、イエス様「キリスト」と認めなかった、先人(イスラエル民族)(=未だ旧約聖書のみに固執)にまでさかのぼり追及して行かなければ解明出来ない、厳しいものがあるのであり…先祖の罪(失敗)を子孫が担う(やり直す)という、歴史・歴史の繰り返し。


 そして…今世紀を迎え、韓(朝鮮)民族から受けるイメージも…

 例えば政界とか財界・芸能界・スポーツ界などを見ても…!? 
 昔のあの…名前も・言葉も奪われ…民族はもちろん、その地に生える植物さえも蔑
(さげす)まれ・疎(うと)まれる時代…とは全く逆の、天と地の差が感じられる、この現代…! 

 これらはやはり、
選民国家としての時代的恵沢(=再臨のキリストの功績)にほかならないのであり、全ては神の意図的なものであった事が窺える。

 国花であるムクゲの花を、日本では、「便所花」と呼んでいたそうな。 
 (ムクゲ=芙蓉の花と共にアオイ科に属し、繊維質で夏の花だから、とても強い。また富士山の雅称は、芙蓉峰と呼ばれるように…徳川の家紋を葵
<アオイ>としたように…源氏物語の葵上<アオイノウエ>として登場するように…西洋花とはまた違った趣を持つ、とても高貴な花の部類とされる。)

 ともあれ、史上最初の総力戦と呼ばれる、
第一次世界大戦が終了した時点からが、再臨のキリストの時代の始まりと称されている。

 ちなみに、この『モーセ路程』で気付いた事であるけれど…実はあの、アメリカの有名な映画監督、セシル・B・デミルの作 『十戒』(旧約聖書の出エジプト記) に登場する…エジプト軍から、モーセ率いるイスラエル民族を救うために、紅海が真っ二つに割れる、という場面…もちろん、映画として超誇大化されてはいるけれど…これは実際にあった気象現象と呼ばれている。(引き潮・満ち潮…?)

 そして現代にも、これと全く同じと思われる、気象現象…実は、
『ある楽曲』が存在する事に、私は気付いた!
 それは…あの、
天童よしみさん歌うW珍島物語W(詞・曲 中山大三郎氏) この楽曲の中に「韓国の民話」を題材とした詞の箇所が登場するけれど…

 この二つの作品
(映画と楽曲)には、間違いなく相通じるものがあると私は確信している ! 天童よしみさんも、この楽曲には特別の思い入れがあると仰っているけれど…(…「天童よしみの世界 夢唄綴り」1996年より)
 
 もちろん、他にも何かの形で存在すると思う

 何より、この
『モーセ路程』に共通した内容の実際の資料も、この現代に存在しているという事実 ! 
 他にも、アメリカ映画
『ベン・ハー』に登場する有名な、イエス・キリスト処刑直後のW3時間の暗闇W(=神の慟哭<どうこく>)などは、実際にあった気象現象と呼ばれ、言い伝えられている。


 そして…古くから『東洋のエルサレム』と呼ばれてきた、長い歴史を持つ朝鮮最古の都市『平壌(ピョンヤン)(兄の立場)。

 (新約聖書…神の国はあなたがたから取り上げられて、御国
<みくに>にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう……日の出づる方<かた>即ち東方に…) 

 聖書には…神様は、物事を行う(摂理する)時には、必ず前もって何かの形で人間にそれを知らせられるし、またその人間に出来ない事を課したりは絶対になされない、と説かれている。そして…たとえわが子に裏切られても・裏切られても…決して、わが子を見捨てない…そんな物語がいっぱい登場する。

 
思うに、『善の立場』 というのは即ち『親の立場』 であるのだから、それは当然、『悪の立場に置かれた人間』 にも本心から納得の出来るものでなければならない、という事になる。

 
『これからは東洋思想が尊重される、アジアの時代である』 と言われて久しいけれど…しかし、その東洋思想というのも、私たち東洋人のためだけにあるものではないという事を、どれだけ認識しているのだろう…!?

 
『情』 『報』 も、どちらも必要不可欠なものとして進歩・発展してきた現代であるけれど、その言動に矛盾はないのだろうか…と。
 例えば最前線にある『テレビの世界』であっても、それは「ただ…ありのまま…」であったり、
「ただの人情正義であったり…

 また例えば 『新聞業界』 であれば、「知的に・義務的に」だけではいけない、その対象の大部分はあくまでも私たち
一般庶民であり…
毎日・毎日の各界のエリートによる・エリートだけを対象としたような難解な言葉の羅列・攻撃ではなく…あくまでもその現場に即した、また言葉には 命がある と言われるように、その文字の一つ一つに 『情』 がこもっていなければならない。そしてそれは、ただの「人情」 ではなく『天情』(=親の情)でなければならない、という。「木を見て 森を見ない」のではなく…天情にはもちろん、「人情」も含まれている。しかも新聞は、なんといってもメディアの本営であり・元締めであり・仕掛け人である、というのが現実だと思うから。

 
そういえば、ラジオ・テレビなどは、メディアの最前線にありながら、何故、現場主義ではなく、未だ紙上メディアを本営・元締めに置くのだろう!? 政治家はもちろん、例えばゴシップ記事など、何故、当人から直接聞き出そうとしないのだろう? 

 また
誌上メディアにしても…あまりにも主観的で・挑発的で…それはそれぞれの購読者のその判断によるもの、とはいえ…いったい、何が目的なのだろう…!?
正・不正だとか…事実を暴露するだとか…読者は必ずしもそれらを求めてはいない…ましてそれが、歪曲化されたものであれば、尚更だ。

 ともあれ、本物と偽物が選り分けられる時代
にあって
誌上…に限らず、すべてのメディアのその究極にあるもの…それはやはり、
『編集』ではないだろうか。 たとえそれが事実であったとしても…当事者たちの本音であったとしても…すべてはこの、編集に掛かっていると、私は思っている。


 『堕落論』という、再臨のキリストの路程に歴史を戻してみても(=歴史的同時性)… 

 
再臨のキリストは、実体でもって・その現地・現場に立ち…人類始祖・アダムとエバの失敗を取り戻し、改めて・地上において・『原罪』を持たない・全人類始祖の立場としての『真のアダム家庭』創世するために、もう一度やり直すべく、自らによって発見された、本物の悪』に対峙(たいじ)して来られたのであり…私たちが机上で、理論・学問として学ぶ『堕落論』とは比較しようのない、想像すら出来ないほどのものがあったのであり…!

 例えば、巷で囁
(ささや)かれる「女性問題」「醜聞」などは…

 
再臨のキリスト理念・教義(=堕落論)を知らない人間が…机上で・一般的感覚で…上から目線の倫理・道徳・哲学でもって判断するような、そんな基準(レベル)のものではない…率直に言って、むしろ、批判されるべき・問われるべき存在は、当時、その対象に置かれた立場『女性側』にあったのであり…
 
再臨のキリスト(=アダムの立場)の如何なる行為・言動に対しても、決して抗(あらが)う事なく・身と心でもって受け止めなければならない(=心情の一致)エバの失敗を克服し、改めて、「人類始祖の立場」に立ち…神の願われる、『原罪』を持たない『真の理想家庭』を築かなければならない、その対象(エバ)としての立場に置かれた「女性」だったのであり…(聖書…マグダラのマリアからの教訓等々)
 そしてそれは、
中心史上において、「失敗の路程」として標(しる)される事となり…また改めて、第二次路程の出発へとつながれて行ったのだという事。 

 これらの事は、思い切った
発想の転換なくしては(=再臨論を知らずしては)、絶対に把握・掌握出来ない理念・理論であると、私には思われる。

 たとえ、
堕落論・再臨論を学んでいても…正論・常識論、現地・現場の・目の前の苦難・困難に押され・飲み込まれ…形としてはその道を歩んでいる人たちであっても、すべてを理解しているとは限らない現状がある、という事だ。

 『湾岸戦争』 から10年後(2001年…)、アメリカは、やはり再びニューヨークにおいて、『同時多発テロ』 という惨劇を受け、苦境に立たされる事になった(ブッシュ第43代大統領政権の時)。
 
そして…「イラク戦争」に突入して行く、ブッシュ大統領を称え、国民はそれに賛同した。
 
 思えば…折角、神がその
「償い」として、意図的に「挽回」「やり直し」のチャンスを与えて下さったのに…また同じ過ちを繰り返してしまった…人類史上に根深い問題があるとしても…思えば何もないところに争いは起きない。何かの結果に対するその報復としてあるものであり、その場・その場の悪で結論を下していたら、戦争は永遠に終らないだろう。テロという、強者にはあり得ない、その凶悪な行為にしても…弱者であるが故の…悲しい手段であって。

 しかし、アメリカ・
オバマ大統領は、イリノイ州の上院議員であった当時、このイラク戦争には初めから反対を表明しておられたそうである (『オバマ YES WE CAN ! 』岩崎書店刊より)

 「
善の立場」に置かれたとはいえ…形(組織)ではなく・その本質を判断するのは、人間それぞれ、個々の責任分担(5%)
 幾多の闘争の歴史を持つ国…このアメリカの流れを
WCHENGEWしたいと誰より強く願っているのは、オバマさんのはずだ!
 
 それとも…もはや一筋縄では行かなくなった、この世界の流れに対して…西洋思想ではない、東洋思想に似た…『心理作戦』ではなく
『心情作戦』のような、何か深い思いでもオバマさんの中にはあるのだろうか…!?
 
  現代においても、例えば今の『アフガン問題』を、過去の『ベトナム問題』に結びつけ危惧するメディアもある…

 
ベトナム戦争と言えば…私にはいつもあの…『枯葉(剤)作戦』…と呼ばれるものが、ヒンヤリとした・殺伐とした思いで脳裏をかすめる…広島・長崎の原子爆弾にも似た…周辺諸国をも巻き込み…沢山の犠牲を生み…十数年という、長い・長い戦争だった。そしてその戦争は終ったけれど…21世紀を迎えた今でも…『物質的価値観』はともかくも、例えば…

 敗戦後の日本が、
昭和天皇マッカーサー元帥を前にして仰ったという、
 『私はどうなってもよい、日本国民に食べ物を与えてほしい !』
 という…御自らを担保として捧げられた、この時のこの
陛下の思いが、元帥(神様)の胸に伝わる事により、逆に日本は発展して行ったという…「無条件降伏宣言」…(聖書「イサク献祭からの教訓」。 
 (復帰摂理の路程においてこの時代圏での日本は、ドイツ・イタリアと共に、神の意図により 「悪の立場」に置かれていた。)

 しかし、
湾岸戦争、イラク戦争同様、この戦争(ベトナム戦争)によって、果たして世界の難題・課題が一つでも解決し・前進して行ったというような事実はあるのだろうか。何を目的とした戦争だったのだろう。単なる正義感でもって自国の鬱憤(うっぷん)を晴らすためだけのものだったのだろうか

 『地上天国のモデル国家』 として設立され、『復帰摂理』 のため、『天使長国家』(学問用語) という、「公僕の立場」でもって、世界を指導して行かなければならない立場にあった、アメリカだったけれど


 やはり…全ては「素」に返り、『もっともらしいもの』(例えば、人情…) は全て断ち切ったところから出発する、これしか道はない、これが一番の早道であるような気がする…と、そういうところに私の考えは落着き…

 
ここで初めて、(冒頭の)『再臨のキリスト』 のみ言そして、『竹村さん』 の言葉に納得出来たような気がしたのだった。

  

 そして、『母親国家』としての、この(=学問的にはエバ国家と呼ぶ。)
 
『父親国家』ての韓国。(=アダム国家)
 (
韓半島と日本列島は、「男性」と「女性」の形に創造され・位置付けられているという。)

 ちなみに、
『朝鮮半島の歴史』において、この民族が…
 
「他国を侵略・攻撃した戦争の歴史は、現在に至るまで、ただの一つも存在しない。」
 と聞いた記憶がある。
 「歴史的に見て、世界でもっとも地震の少ない国だった。」
 とも聞いている。

 
…それだけで人生を計る事は出来ない」とする、この東洋思想成約時代と呼ばれる現代にあって、一見、どっちつかずに思われ、単純でないこの東洋思想だけれど…何か計り知れない思いが、神様の胸の内には隠されているのだろうか。
 

 
第二次世界大戦においても…当時の日本には、徴兵検査合格・出兵・戦死は名誉とさえされ、遺族の方たちも未来永劫、保護されるという、まだ「余裕」があった。 
 しかし、
韓(朝鮮)民族にとっての戦争は…兵士はもとより、民族として・人間として生きる事さえもその根幹から揺るがされ・否定され、その「後遺症」というものは(南北切断…脱北…食糧難)、実質、延々として消える事なく、今日にまで及んでいる。
 
特に日本は北朝鮮に対して、歴史的に見ても、なんの知識も・実感もないままに、建前でもって悪人呼ばわりし、被害者意識を持つ事などは出来ないはずだ…!
 
現代においても、
北朝鮮から発せられるさまざまな問題・課題への対応にしても、試され・期待を寄せられているのは、私たち『善側の立場』(弟の立場)であり、北朝鮮国こそが、その最大の犠牲者(兄の立場)である事を知らなければいけないと思う…(神の意図・モーセ路程からの教訓)
 

 そして、21世紀を迎えた今、その
韓国さえも…『神様の支援』を受けながら、世界的文化国家にまで成長・発展して行った。
 ならば…その神様の
『支援の究極の目的を考えると…未だ戦争という後遺症に喘
(あえ)北朝鮮の人々(兄の立場)を、ここでもう一度見つめ直し、自他共に(どちらにとっても)不可解な…命令・指示…命令・指示(…せよ・…しなさい)の繰り返しではなく、(…しよう・…しましょうというように)同じ目線・立場でもって、真の救済の道へと導いて行く…その『手立て』を考えなくてはいけないという…そういう時代圏にある事を、日本は勿論、同じ体験を持つ韓国(弟の立場)の人たちこそが実感し・把握しなければいけないのではないだろうか。誠実な朝鮮民族・日本民族が復帰摂理の中心に置かれた意味も、正にここにあるのだと、私は思っている。 (=ヤコブ路程からの教訓)

 これは過去の世界中のさまざまな戦争にも通じる課題だったと思う。現代においても、
バランスだとか、デタントだとか…そういった、もっともらしい合理的・表向きの作戦では、人間の争いは絶対になくなる事はないだろうと、私は思う。これらは決して他国のためだけではなく、何より、自国のためなのだ。
 
父親国家、母親国家、天使長国家と呼ばれるその位置付け(復帰摂理歴史の中心・最大ポイント)にも、もちろん限りがあるのであり・永遠のものではないのだから、いつまでも神様の息吹を感じていられるという事にはつながらないと思う。 (新約聖書…すべてのわざには時があり…) 

 
 
思うに、日米関係にしても…学問的に捉えれば、「軍隊を持つ国家」「軍隊を持たない国家」を比較した場合、どちらが先進的かといえば、当然「持たない国家」だろう。なのに何故、「持たない国家」が、何もかも十把ひとからげで、いつまでも「持った国家」に合わせなければならないのだろう? そんな関係は本当に双方が望んでいる事なのだろうか? 
 途上国はともかくも、先進国と呼ばれる中にあって軍隊を持たないという、これこそが本
当の理想とする先進国家なのでは? 
 まして
「核抑止」などは、強者にとってはバランスでも、弱者にとっては、それらを相手が持ち続ける限り、どんな言葉で説得されても、それは差別
威嚇
(いかく)以外の何ものにも映らない

 何より…神様は、一から十までの全てを「弟の立場」を通して教え導いて来られたというものではなく、物理的・経済的等々において(=現実の地上天国完成のため)、先を歩んで来た「兄の立場」(広義の共産主義)を通しても学び合うものがあると指示をし・指導して来られたのであり…試される立場にあるのは同じであり…21世紀を迎えた今、その集大成として、(全てを頭からお互いを否定し合わないで)同じ目線・立場に立って認識し・協力し合って行くべき、重要な事の一つだと思う。(=共生共栄共義主義社会の実現)

 だから…たとえ
兄の立場であっても、反省すべきは反省するというのが、当然の義務という事になる。
 
 たとえ21世紀の今、『善の立場』(弟の立場)に置かれていても、それだけではそれはまだ本物ではなく、あくまでも
『悪の立場』(兄の立場)に置かれた人間(国家)を、(人間とは全く別個の存在である)『悪=サタン』(キリスト教用語)から取り戻し・神様にお返しし・『人間始祖・善の立場』に立て、そこで初めて神の願われる、本物の『善』を取り戻した事になり、そしてさらに、これらは『善の立場』に置かれた人間(国家)の力だけでは絶対に不可能な業(わざ)であるという事を、何にも増して双方が認識しておかなければいけない、という事なのだ。

 (=神は、どちらが欠けても復帰の摂理は永遠に成り立たないもの、とされた。究極には、
北朝鮮の共鳴・協力なくしてはあり得ない。) 
 (=宗教のみならず、社会性・応用性を育てながら、科学との融合・統一も成されなければならない。) 

 厳しい国家情勢・社会環境にあって、
兄の立場という、意地とプライド…北朝鮮が本当に求めているものは何かという…それを知る事・悟る事・そのための知恵。これこそが、彼らの苦悩に応える、唯一の道ではないだろうか。
 (=金銭・物品の進呈・贈呈の繰り返しではなく…協定・協約、そして究極には、共生・共栄の道へと導く
知恵。) (ヤコブ路程からの教訓。)

 
再臨のキリストは仰った。

 
『地は分けられても民族を分けることはできません……朝鮮半島が和解すれば世界が和解し、朝鮮半島が統一されれば世界が統一されるのです。』 
 
 
(学問的・理論的には旧約聖書・新約聖書…実体としての成約時代の完成。)  


 神様はわが子・人間に、長所だけではなく・わざわざ短所をも与えられた…さまざまな人間が混在してこの世が作動し、喜怒哀楽が展開されて行く。
 
しかし例えば…大事な存在である、わが子・人間そのものを対象とした『核兵器』などは、
神が理想とされる撃退方法などではなかったに違いない。何より、これさえなかったら、人間はもっともっと早い時期に、
『人類は一家族・世界は一家族』として、それぞれがそれぞれに、相手の個性を尊重し合いながら、究極の神の理想世界を取り戻し・築いていたのではなかっただろうか。 

 もそも、『核兵器』というのも、元はといえば北朝鮮が、また、イランという国が打ち出したものでもなんでもない。先進国の…時の指導者の・(賛同する国民の)…もっともらしい・一時しのぎの手っ取り早い幸せを求める中からの、我欲に満ちた産物であり、核兵器による勝利が、人間の心を養い・豊かにし、向上させるものとは、到底思えない。

 思えば、残された最後の切り札は…!
 世界を先導して行く立場にある大国の率先した、たとえ
核攻撃を受けようとも軍隊は持たないという、犠牲の心』なのかも知れない(=信仰・親の心)、これしかないのかも知れない。
 
(=イサク献祭からの教訓
) (=昭和天皇による『無条件降伏宣言』からの教訓)

 
再臨のキリストは、さらに仰った…『もはや、ためらっている時ではありません』 と。

 
何より、人類は今が、マスコミ戦争(第三次世界大戦…天の摂理)の真っ只中にある事を自覚していない、気付いていない。アメリカにしても・ロシアにしても・中国にしても…
 
 例えば、今のあの中国の攻勢は(
北朝鮮にしても…)、マス・メディアの存在なくしてはあり得ない言動であり…今や、武器戦争というのはそれに付随したものであるに過ぎないのであり、全ては情報の結果によるものなのだ。

  

 それにしても…
 「相手がやれば、こちらもやり返すのは、当然(制裁)」「か・か、それだけ!」
 という…「歴史の流れの解らないままに追い詰められた、人間の苦渋…あがき…」を一瞥(いちべつ)した、この「もっともらしい善」「高みの見物」
という、
もながらのこの流れは・この体制は、ベトナム戦争…湾岸戦争…イラク戦争同様、延々として続いて行くものなのだろうか…!? 
 追い詰められ、行く先を失い、「自爆」自殺」に走る「子供社会」と重なるものが、前方に浮かんで見える…!
 

   

 生まれながらにして人質(ひとじち)となり、成人してからも西と東に挟まれ、忍耐一筋の道を歩みながらも、自らも天下を統一し、日本史上最大の江戸幕府を開いた、徳川家康
 小泉さん
は、自らを織田信長に例えられた事があった。ならば、鳩山さんには…何としても、徳川家康であってほしかった。
(微笑) 私の中にある家康は、どこか茫洋としたところのある人、という印象があって、共通したものを感ずるけれど? くれぐれも、多岐亡羊ではなく。(また、あの母上の存在を、「於大の方」に置き換えてみても、どこか共通した運命的なものを感じたりして? <微笑>)
 もっとも、当時とは時代背景も全然違って厳しいものが感じられる現代。
鳩山さんに掛かるもの(負担)は、大きかったに違いない。 

      

 与党(=民主党)は・マスコミは、何を目的として、政治家の「資金問題」「献金問題」に対する個人攻撃を、21世紀を迎えた今、正にその税制度という基本の・根源の・喫緊の問題・課題で混乱している最中に、ひと昔前となんら変わる事なく、一律一辺倒な感覚でもって、延々として続けているのだろう !? 何故なくならないのか…またこの問題が一件落着したとしても、メディアにとっても、また私たち庶民にとっても、何の充実感も・メリットも生まれては来ないという現実を、重々承知しておきながら…!
 
「 (とりあえず、その時・その時の正論を唱えておけば問題はないだろう…) 」
 という事なのだろうか? 

 世論というのは、現場をしっかりと確認したものでもなんでもなく、ほとんどがマスコミの情報から得たものなのだそのマスコミにしても、自らの心(情)と体(報)でしっかりと実感したものであるとは限らない
 
世論調査というのは、メディアの主観を満たすためにあるものなのだろうか…!?
 そういえば…海外に学んだ人たちが帰国し・一番に感ずる事は…どこか流
動的で・一貫性のない…自己表現力に乏しく…マスコミに牛耳られた、この国民世論だそうである。そしてそれは、衆愚政治へとつながって行くのかも知れないという


 確かに素人目に見ても、「海外世論」というのは日本のそれとは違い、良くも・悪くも政治に鍛えられた、とても強く緊迫したものがあり、生活感があり、時には恐怖さえ感じさせる。
 建物に例えれば、気候風土に恵まれた日本は…和風だ、洋風だ…ここには窓が必要だ、必要ない、と…外観・設計にばかり拘るけれど…海外では、ともかくまず、しっかりとした・土台に拘る。

 また、地検(官僚)が介在し、天罪ではなく、そんな人罪で無理矢理罪状を作り挙げても、地検はともかくも、誰にとっても、なんの夢も・ビジョンも湧いてはこない…仮に何かを掴んだとして、その取り上げられた「悪銭」の窮極の行方は・行末は? 私たち国民に還元されるものなのでしょうか? 何処に収まるものなのでしょう?

 人はそれぞれに・その人なりの使命・個性を与えられていると思うのに、あくまでも人間のその時代・時代の都合で作られた法律を盾に、義務的・常識的判断でもってことごとく否定し・裁く…本当に相手をしっかりと見据えた上での裁断なのだろうか? 「現場の苦労が判っていない証拠」とは言えないだろうか(=社会性の欠如)。
 中身には関係なく、正義に名を借りた単なる数合わせが政治というのなら、その人を選んだ意味も・選挙の意味もなくなってしまう。

 年がら年中、現状維持に囚われ、何故、こんな事ばかりが繰り返されるのだろう…!?

   
 国会の質疑応答を見ても、国民にすれば…
 「あなたは清廉潔白かも知れないけれど、同じお仲間が過去にどれだけ繰り返して来られた事か…そしてそれらの清廉潔白は、現にその後の施政のための何かに役立ち、国民に返上されて来たのでしょうか? それを考えると、この追及によってどんなビジョンをお持ちなのですか!?」
 という思いだけが残り、そんな「木を見て 森を見ない」議論・討論の繰り返しには、国民は何の期待も寄せられない…少なくとも、さすがにこれまでの与党
(=自民党)とは目指す方向が違うだろうと、かなり期待を寄せていた私たちだったのに…!

応急処置の繰り返しの結果がもたらしたもの

 例えば中央選挙・地方選挙に対する、メディア・政界のあり方にしても…
 事の前には、さまざまな言葉で選挙の重要性・歴史的税制改革・構造改革を掲げ…
 「無投票は非国民 !」
 などと叫ぶけれど…選挙が終われば一段落、歴史的税制改革・構造……はどこへやら、再び地検が登場してきて、既成の法律を盾に地検主導で、「政治家の資金問題」「政治資金規正法違反事件」などと大胆な見出しを
メディアのトップに掲げ、問題を掘り起こし・追及・摘発しては政治の進行を妨げる…
 政治家にしても、「官僚によって取り決められた、これらの国会行事・国会討論」をこなす事こそがその生業
(なりわい)であり、現場(国民)や実践は二の次であり・先の問題であり…
 
 
これは言い換えれば…
 選挙とか税制改革・構造改革といったものは、いつの時代にも繰り返して来た、一つの儀礼であって表向きのパフォーマンスに過ぎず、初めから必要とするものではなく…基本問題は官僚によってすでに出来上っている…一度、法律を立てればあとはもう、一にも・二にも、目の前の不正・汚職を摘発する事…これこそが、日本の
マスコミ・為政者のなりわいであり・使命である…という事なのだろうか…そうとしか思えない。

 「何故、こんな(税金を巡る)事件が果てる事なく、延々として続くのか…!?」
 という、根源・出発点の問題などは考えない
。 
 それよりも、そんな人間の本能を否定するような
、今の税制こそを早く改革してほしい! 格差・差別のない・官僚制度を一掃した世界に通用する、税制度 

 花にも、高価なバラの花もあれば、安価な道端の名前も知れない花もあるように、人の個性も・スケールも、人それぞれなのに。しかも、こんな多様化した現代にあって、税金の使い途を、何を以て、また何を基準として「公」と「個」の区別・分別を付け判断を下せというのか
! 曖昧というか…良い・悪い以前の問題だ。

 ちなみに近年は、無投票そのものを、時の政治に対する「不信任」「抵抗」とする人たちが増えた気がする。


 もっともこれは…例えば直接税・間接税・社会医療保障等々を、今のような中途半端ではなく、限りなくゼロに近い状態にした上での話であり今のこの全ての改革案…郵政」だの…「事業仕分け」だの…何より「脱税問題など足元にも及ばない程の気の遠くなるような、公務員改革」だの…までもが、何一つ解決されず…その他具体的な事には何も手をつけない中での悪循環を繰り返すものでしかない、小学生にでも出来る発想の、一時逃れの「もっともらしい消費税率アップ論」などには、絶対にマインド・コントロールされてはならない、今のこの状態の中で「導入」するなどとは、とんでもない話ではあるけれど。 

 こんな状況の中で
「消費増税をする」という事は、言い換えれば…
 「わが党の力量では改革は出来ない…その代替えとして…」
 という事なのだろうか。

 これは、
医療問題に例えて考えれば判る事
だと思う。当のご本人(患者)の意志努力は二の次で…他力による、応急処置…応急処置(化学一辺倒)…ばかりを奨励し…延々として繰り返して来た結果が、今の医療界・日本の実態なのだから!
 
 戦争の後遺症…やり直し…発展途上にあって、世界の基準に追い付け・追い越せと、さまざまな苦労に直面して来た、
諸先輩の時代であればともかくも…

 少なくとも
現代においては、やはり、この
「もっともらしい存在」(=個々を犠牲にしてでも国家としての収支のバランスを維持したいという)応急処置的消費税率アップ論こそ、諸悪の根源と見なさなければいけないのでは? 後手・後手の応急処置の繰り返しではなく、先手を取って考えるべき時代ではないだろうか? こんな誰にでも出来る発想を重要視するのなら、それは専門家に任せるなりなんなりして、わざわざ苦労して政治家を選ぶ必要なんてないと思う。

医療保険問題等に対する消極的姿勢

 ところで、社会保険等の問題だけれど…
 与党・野党にしても、
メディアにしても、課題と言えば何故、未来のため・未来のためを連発しながら、(官はそのままに)民営機関における、年金問題ばかりを取り挙げるのだろう? 今の日本の状況からしても、差し迫った国民の求める、もう一つの緊急課題である…納めても・納めても足りないと言われる、この強制社会医療保険(他にも失業保険・雇用保険・介護保険等々沢山・沢山…)の問題はどうなっているのだろう !? 具体的どころか名前さえ出てこないのは何故だろう? 何故、
費税率アップ論という言葉だけが先回りをし、飛び交うのだろう!? 人事を尽くさないが故の天の采配が下りない政策が進まない…もう一つの理由も、ここにあるのではないだろうか。


 別の項でも述べたけれど…日本の強制社会医療保険というのは、海外先進国のように、消費税に含まれ・国家負担とされたものではなく別個の公金として別徴収されるものであり…それぞれが未来の利用性を予測し…半信半疑な思いで…毎月毎月・しぶしぶ…何の見返りもなく事前に支払い…何より罹病にあれば、さらにそれに加算されたものを支払い…しかもこれは、全国民(=全所帯・失業家庭までも!)の納入義務であるにも拘わらず、基本的には納入(徴収)先も・利用目的も既に最初から決められたものであり(目的税)
 お金の行く先 も、一方的・組織的
(=公共機関)に流れるものであろうから、消費税とは違い、需要と供給、つまり、経済の循環には貢献しないし、庶民に目に見えた形で還元される事はない…金額も基本的にはそれぞれの支払い能力に応じて固定化され、融通も調節も効かない…何より、国民側からすれば「掛け捨て」である。いや、掛け捨てであればまだ一抹の希望もある…しかも、毎年度の予算が…余った時はどうなっているか知らないけれど、足りない時は…消費税はたとえ「1%」であっても散々議論・討論を繰り返すのに、(国民の目に触れる事のないのに便乗してか)政府もマスコミも取り上げようとも・知ろうともしない…政府の前は素通りのフリー・パスで…足りない・足りない…を連発し、国民直接に・即座に・当然のように搾取する…国民にすれば、この強制社会医療保険というのは、全世帯から徴収するのだから、まるで空気のような…一方的な…絶える事のない…延々と続く川の流れのような存在であると思うのに。
 何より、毎年・毎年の青色・白色の確定申告…ともかく、何もかもが一方的で…肝心な事がさっぱり判らないから…その肝心の
健康のためにこそ、良くないのではないだろうか !?

 例えば、テレビ番組の実態を見ても…
 
「日本のこの、国民皆保険制度
は素晴らしい!」
 と、医療側の人たちが、まるで国民の声でもあるかのように唱える(一人二役)…そして、聞き手側も…
 
「なるほど…!」
 
と、納得したような表情で応え…どこが・どう素晴らしいのか、具体的にその説明を求めようともしない。 
 保険料滞納する国民の心理についても…世論調査から得た数値を盾に、未納側の事情も…生活苦のため…としてしか捉えず…
 「金額・税率の問題ではなく、保険制度そのものに対する疑問・抵抗でもある。」
 という事には気付かない。

 確かにこれらは、
勤労者が圧倒的に多いこの日本社会では、毎月・毎月の保険料(給料明細)を自らが算出し、また毎年の申告に出向くわけではないのだから、経営者ほどの負担感・抵抗感はなく、気付かない場合がほとんどだろうけれど。
 
 思えばこれら現場の実情・内情は、国民のみならず、たとえ総理大臣であっても、その目に触れる事はなく、未知の世界の話なのかも知れない。何故なら…もしそうであれば、つまり、れっきとした理念が存在し、為政者全てが納得している事柄であれば、
「事業仕分け」などという、こんな大掛かりな作業などは、初めから必要とはしなかっただろうから。

 これは、他のいろいろに・さまざまに組み立てられた、
税金・公金制度
(町・市・県民税・固定資産税等々に始まる地方税…所得税・法人税・相続税等々の直接税…酒税・タバコ税等々の消費税に始まる間接税…関税等々の国税。他にも、車検・○○保険・□□保険・△△保険等々…膨大な種類のもの)についても言える問題・課題ではないだろうか。 官僚さんはともかくも、国民の何%がこれらの事(=一つ・一つの税金の使途・目的)を理解しているのだろう? 21世紀の時代感覚とは到底思えないものがあるような気がしてならない。 

 細やかな国民性
とはいえ…
お上に年貢を納めた時代の感覚、そのものだ。 

私憤公憤

 例えば、W負けて勝つWという方法があるかも知れない。でもこれには、それなりの中身と条件が伴っていなければならないし…
 また最後の手段として
W全てを刷新するWという方法もあると思う。でもこれにしても、国内だけではなく「海外への対応」という事を考えれば…それに通じるそれなりの中味と重みが必要だ。「新」対「旧」というのは、まだまだ机上の段階の論理であって、現場・現実には簡単には通用しない…

 
ならば、とりあえず…えば、もはや検察さえ引いた(終了した)も同然の問題(=一政治家の資金問題に対する個人攻撃)を抱える中で…

 W
進行を妨げるよけいなこだわりは、一つでも多く省いて捨てるW
 これこそが実現可能な、国民・為政者が心を一つにして取り組める、
最良手段なのでは? 

 
それとも…こんな回答の出ない問題であるならば、それは必ずしも受け手側の責任とは限らないと思うから、
 
W回答の出ない・ビジョンのない問題を引き起した、送り手(=与党・内閣)の責任W
 としても考えるべきであり、それも多くの(良識ある)
世論を納得させる、一つの方法なのでは ? 

 そもそも…たとえいかなる判決が下されたとしても、自分たち国民にとっては何の利益ももたらさない、未完成な今の
税金・公金制度
…摘発である事
にも気づかない、世論 ! それがための今のこの国会の混乱なのでは !
 
 何より、そんな
世論を重要視した読みの甘さ ! にも拘らず、政治家の進退問題に対する(その立場を利用した)一方的暴言?(かといって、政治主導の体制でもない)を内閣発足時のトップに掲げ・同時宣告した事が、今のこの混乱を引き起したのだから !

 思い起こせば…一年を振り返ってみても、日本の
現場の実情・客観性を無視した主観的なこれらの問題が、メディアに載らない・取り挙げられない日は、ただの一日たりともなかった…いったい、これは何なのだろう、この異様さは…!? と思ったものだった。
 私たちはといえば…こんな
民主主義社会の現代に、個性尊重には程遠い、モラルを装った「一方的」「形式的」な言葉の羅列に惑わされ・引きずり廻され心の足を引っ張られ…そしてまた、一方で党内を割り、一方で連立の呼びかけをするという…矛盾か・秘策なのか…主観なのか・客観なのか…また、○○グループ、△△グループといったような、まるで選挙戦を目的とするだけのイメージを与えるこれらの暴言(呼び名)にしても…これは明らかに、マスコミが勝手に作った呼称であって…!
 ともあれ、そもそもの始まりは、すべて内閣発足時の(公私をはばからず発せられた)、あの暴言(=感情的人事・采配)にあるのだから!
 

 もちろん、スキルは大事だ。でも
のないスキルや倫理・道徳の前には…たとえ何か(政策)が実行されたとしても、私たち庶民には何の感情も・喜びも伝わってはこないだろう…まして、これらの停滞を表向きの小善でもって他人のせいにするなど、論外だ! それとも…この遅延・停滞さえも、(内閣長期維持のための)主観的・意図的なものなのか、とさえ勘ぐってしまう…!? 

 人の出会いは、神様の領域だ。
 W明日、あの街角で・この人に出会うはずW
 などという事は、少なくとも私たち凡人の力であり得る事だろうか? 
恐らく、お釈迦様でさえあり得ない。まして(身内同士で)政策ではない、『存在そのもの
』を否定されては、どんな強者でも何も出来ないし・前には進めない。いつの時代にも繰り返してきた、前に進めない理由のポイントは、まさにここ…「公器を利用した主観的・感情的人事・采配」…にある(あった)のだから ! 
 
 
モーセ路程の教訓にもあるように、「私憤を防ぐ」という事は、いつか必ずその「因果応報」として表われるであろう、 「国家の・世界の災難を防ぐ」 という事であり、当人たちや個人の次元の問題などではない、という事だ。

 思えばこれらの、例えば資金問題・献金問題などは、今の税制度から抜け出すための天の警告に気付かせる、一つの「犠牲・生贄(いけにえ)なのかも知れない。


 そしてまた、例えば沖縄基地問題などは、野党(=自民党)が、まず初めに自らの持論を…省みる事も含め…与党時代には出来なかった、今こそ、野党というその立場を利用して(=政権維持を与党ほどには拘らなくても良い、今の内に…)、もっと具体的にマスコミに公開し、その上で与党批判をする、そうであれば、今のような混乱はかなり緩和され、もう少し先が見えてくるような気がするけれど?
 
 
「日米地位協定」にしても…世界でも、トップクラスの先進国と呼ばれる両国の間に、未だこんな条約が通用していたなんて、信じられない事だ…!?
 思えば戦後、現地に家族を残し、何の法律の壁にぶち当たる事なく帰国して行った、米軍兵…取り残された
母子家族これらはこの「日米地位協定」の存在から生まれた悲劇だったのだろうか。何より、敗戦国・日本への原爆投下…にも拘わらず、未だ続く日本支配…米国崇拝…これさえもその類いだろうか…!? いつの時代にも、何故、肝心の政治だけがこんなに遅れて歩むのだろう!?  
 
 
沖縄の人たちの姿を見ていると…にはぐれ、一生懸命、世間の荒波と戦いながら生きている、みなし児
と同じ。 親はといえば…わが子の姿を知りながら、名乗り出る勇気もなく、わが身の置かれた社会環境を保持する事の方が先で…見て見ぬ振りをするしかないという…その社会環境こそが、世界を混乱に陥れている原因の一つである、という矛盾に気付かないはずはないと思うのに…!


 ここにも、現場を見落とし、机上主義・
官僚主義を貫いてきた結果の一つがあるような気がしてならない。

 「郵政民営化」の時もそうだった…「民営化」を選んだのは、あなたたちではない、マスコミではない、この私たち国民だったのに…月日ばかりが空しく過ぎて行く。そもそも、「郵政民営化反対組」のトップ(元警察官僚の方)が、見直しのトップに立つという事自体(何より、ご本人にとっても)、無理があったのでは? (むしろ、犠牲者だ!) 
 私たちが望んだのは
(小泉改革の原点は)、仕事内容のノウハウの前に、「明治以来のからの脱却」という、この基本の問題を何はさておき原点としたかったのであり、スタートの立ち位置が初めから違っていた。
 国民の官僚に対する抵抗意識が、もはや、ここまで判明された今、何故、
郵政自らが率先して改革に挑もうとしないのだろう? 特に、郵政に携
(たずさ)わる、若者世代の人たちの未来のためにこそ、方向性さえ定まれば、あとは一日でも早く、と思うの! 民営機関(銀行・宅配便…)であれば考えられない、対応感覚だ! 
 むしろ逆に…
官僚に守られた公的機関は他にもいっぱいあるのに、何故、わが郵政だけを標的にするのか!? くらいの気概を持ってほしい

 
(地方では、この
郵政というのは未だ世襲制になった所もあり…「公的機関」なのか「私的機関」なのか、さっぱり判らないでいる。) 

 古くなった建物を
改築するのには、一旦
、建物を解体しなければならない…そのままの姿で改築など出来るはずがない…
 しかも、その
解体のためにも、まず自らが投げ打って多額の資本を掛けなければならない。 これは病院(手術)に例えても同じだと思う。まだまだ、「利益の問題」で騒ぐ段階ではないのでは? 
 与党(=民主党)にしても…大多数の民意を得たにも拘わらず、政権交代と同時に・その民意を超えて…「民営化自体を見直す」というのは…なんとも…! 
国民に対しての「立ち位置」が、少し違うのではないだろうか。

 話がちょっと外れるけれど。
 あの…表面的にはさまざまな形で敷かれる、
「生命保険」だけれど…
 人間が窮地に置かれた時、またお金持ちの場合はともかくも…この現役の間にある時、もう少し実質役に立ってくれる方法はないものかと…少なくとも、私の周りにいる人たちは口を揃えてそう言う。
保険というのは「金持ちでない人のためにこそ作られた知恵」ではなかったのか、という…!? 強いて言えば「貯蓄型生命保険」には、そのメリットはなくもないし、あくまでも個人の自由であり・楽しみであり…でもこれにしても、肝心の緊急の場合、その現場において何かと制限があり、また
「特約」は満期受け取りの還元には関与しない? 多くの人が、この「特約」に関しては認識不足では? 「掛け捨て型生命保険」と重複しているのでは? いや、掛け捨てならまだまし…その形態も、社会保険と重複したような…などと思ったり。自分の描くものと現実の違いに…こんな事なら最初から加入しなければよかったと、逆に心労が増えたり・憤慨したり。しかも家族全員に役立ち適用されるわけではない…この点は、社会保険とも違う。また期限が来れば、すかさず次の加入を勧められ、手元に置いて自分の財産としてゆっくりと味わう余裕などない、というのが現実。この「医療問題たけなわ」の日本で、「未来・死後のため」はともかくも、この今、「生命保険の現場」はどうなっているのだろう? 
 (もちろん、「掛け金の一括払い」により、世の中には相続人がしっかりと受け取る場合もある事を承知の上で…念のため)

  (私がまだ未成年だった頃…生命保険の満期受け取りか何かの時だったと思う…
W数千円の生命保険が返って来た
Wと、家族の誰かがつぶやいているのを聞いたという、思い出がある。) 

 生命保険
を巡る殺人事件…生命保険というのは、殺人まで犯さないと取得出来ないものなのか(いや、殺人であれば尚更取得出来ない!)…それを考えると、強制や義務ではないにせよ、この「生命保険」を始めとした、さまざまな「○○保険」「△△保険」というものは、自由競争社会と言われる中にあって私たちを悩ますWもっともらしいものWの代表的存在の一つかも知れない。
 例えば
天災にしても、もちろん、火災・病気にしても同じだ、こんな物質的にも・情緒的にも豊かな時代にあって、これらは未だ国家の問題ではなく、「個人の問題」なのだろうか。子供(国民)が怪我をして病院に運ばれても、苦労している親(国家)のため、自分でその治療費を支払わなければならない、と同じ理屈だ。 しかも、勘違いしている場合が多いようだけれど、これらは被害そのものに対して保障される訳ではない(例・病気そのものではなく、入院日数が対象。地震・火災そのものではなく、それによって
失った、財物が対象)。 

 例えば、「サラ金」の場合…「現ナマをポンと貸したのだから、ポンと返せ!」というのは筋は通っているし、個人の問題だ。なのに、社会的には「
保険」で、「サラ金は悪」である。しかも、サラ金利用者のその目的のルーツには、税金滞納
公共料金未納…と、悪循環がとても多いにも拘らず、社会人になれば生命保険に…建物を建築・購入すれば火災保険・地震保険に加入するのが常識、という…保険に対する、不健全な公金感覚

 
思えば、(
今さらながら)この
生命保険社会医療保険の違いは何だろう? 罹病の時、保険通帳を差し出したからといって…医療側
はともかくも…当人には何の見返りがある訳ではない…医療側のためにある保険。
 
しかも、さらに加算された治療費を…入院に至っては、予定外の・突然の膨大な経費
(福利厚生費等々)が…今度は、まるで営利感覚で進められて行き…そして、回復しても・しなくても、その罹病には関係なく・引き続き、ただ黙々として…春・夏・秋・冬…ひたすら支払い続ける…!

 だから、それを考えると…「官」と「民」において、私にはやっぱり、大きな疑問が残る。
 
為政者・官僚は「金額・税率」の問題ばかりを取り挙げるけれど、
私たち庶民の言いたい事はそんな事ではない、官僚を中心とした、
税制度そのもののあり方メンタルの問題だ。


  あの『菅家さん事件』(冤罪事件)にしても。

 これこそが天罪でなくて何だろう
言わば公職といってもよい環境にあった、菅家さんなのに! 当時、市側・県側の支援や協力は何もなかったのだろうか。
菅家さんの存在自体を初めから知らなかったのだろうか!? マスコミにしても…その後の菅家さんについては何も語らない、知らん顔。しかし、全国の一部のメディア・市民団体、また民主党の有田芳生さんなど政治家の方たちが、(党員となられた今でも)その多忙な中を縫って、引き続き絶やす事なく、真犯人の追及・捜索にがんばっておられる、と聞いている。

 逆に、
『郵便不正・村木元厚労局長無罪の事件の場合。

 テレビである有識者も語っておられたけれど
…元厚労局長という立場だからこそ成せる技であり、私たちにはとてもそんな力量はなく、雲の上の話でしかないのかも知れない。菅家さんの事を思えば…あまりにも早い解決だ。これは言い換えれば(言葉は悪いけれど)、村木さんの方に、その環境において何か予想される・確信を得た事実(官僚的習癖)があったからこその、早期解決ではなかっただろうか。
 ただまあ、この事件を広く・あらゆる官界に置き換え考えて行けば、後々何かの役に立つ事件だった、という事は言えるのかも知れないし、その意味では、
村木さんは、とても貴重な存在だ。
  

     

 ならば…むしろ、今こそこれらを CHENGEのためのチャンスとして、あくまでも原点に戻って…
 この
『税体制』
(直接税・社会保障等々…)そのものについて、十把ひとからげではなく、(気の遠くなるような種類の税金)一つ一つを取り上げ具体的に検討し・追及して行くとか…そういう姿勢が大事ではないだろうか
 
 
かつて、小泉内閣が、構造改革
安倍内閣が、そのための具体策として、(自らの報酬を減額し)まず、歳出削減に取り組む事を切望したにも拘らず断念せざるを得ず、無念の涙を呑んだ…その窮極にあるもの…地方自治体にはびこる? ゴチャゴチャとしたもっともらしい、さまざまな税制度…この
『税制度の改革』 こそが、 あらゆる問題の解決につながると思うし、その方向性を示す事こそが大事なのでは! (もっと簡潔に!)

 そのためにも、今のこの
『過渡期(=CHENGEの時)』というものが、どんなに大変な・困難な時である事か…! アメリカだけの問題ではないのであり !

 
現代において、私たちを悩ます、一番の曲者は何だろう?
 
 海外
で起きる、あの激しい反政府デモや闘争も…日本国内にはびこる「もっともらしい…官僚政治がもたらした副作用・後遺症」を思えば…前者の方が、ずっと単純明快で、
解決の道にたどり着くのにも早いものがあるのかも知れない。どうだろう? (国家の特性・個性の違いはあるとしても)

さまよえる世論

  何より…自らの媒体のための資料確保のため、余裕を与えず、一寸の隙もなく攻め立てるという姿勢…その既成メディアのあり方』こそが、先決の課題なのかも知れない。 

 でなければ…
国民はズルズルと、どこまでもついて来るし…また、ついて行く事しか出来ない…
 
 
新らし物
(=施策・新案)に対しても…
 失敗(失言)を恐れてか、事の前に先回りをして、リスク面ばかりを取り上げ・追及する習性…確かに物事は
、成功よりも失敗を想定した方が確実で責任感も少なくて済むかも知れないし…スポンサー・さまざまな人間関係…また、「物事は慎重に」という親心もあるのかも知れない…でもそのために、
せっかくのをぶち壊される事も多い。
  
 終末・末法・世紀末と呼ばれ、思い切った発想の転が必要とされる、今のこの時…巷で起こる
さまざまな出来事は、一つの見本として提示され
、それを
(=チャンス)としての改革を願う
天の解答であ
り・
試練であると思うのに

 以前、(上述の・評論家の)
竹村健一さんが仰っていた…
 「
紙面のトップやメインではなく、片隅に追いやられたようなごく末端の小さな記事の方に、
時の理にかなう、より重要な意味の隠されている場合もある…注意が肝要だ。」
…と。
 

 かつての郵政改革のような…あの孤高の姿が懐かしい。時代を読み、周囲の状況に惑わされず、目的に向かって自らの信念を貫こうとする人

 微妙な施策を打ち出し…その時・その時の
多数決によって応急処置を繰り返し、生き延びようとする人。

 「赤信号 みんなで渡れば怖くない」時代は終わった…世論の端くれとはいえ、この自分の本質はいったい、どちらの立場にあるのか…時々、点検してみる必要があるのかも知れない。 

天皇陛下のご配慮 

 昨年末、日本は、民主党・小沢幹事長の計らいによる皇室での・習近平中国国家副主席特別会見の問題で、もめにもめた(私たちは、もめた記憶などないけれど…)。

 しかし、思い起こせばその数日後、天皇ご一家は、何事もなかったように…
 ご家族大勢をお連れになって(清子様ご夫妻も
!)葉山の海岸に出向かれ、
天皇皇后が先頭に立って舟(櫓)を漕ぎながら、季節はずれの「海辺のひととき」を楽しまれた…(??) そして、

 
「国民のみなさん、ご心配なく。私たちはこんなに元気ですよ!

と、報道を通して、その思いを国民に示された(訴えられた)。

 私はこの時、(何はともあれ、
中国と日本の未来を思うと)嬉しくて・嬉しくて、感動してしまった! 

 
中国国家副主席というのは、政府の代表であると同時に、国民の代表でもあるのだ。
 
マスコミ戦争という、慌ただしい時代の中にあって、突然の来客であろうと・突然の外交であろうと
、政治を超え、心情の伴った『真の外交』を示して下さった。そして…宮内庁に対する何かだったとはいえ…誰にも影響を及ぼさない、最も安価な方法でもって、そのご心情を示された。

 
すべてを自国を中心として考える…普通、単価の安いお客であろうと、高いお客であろうと、どんな事情があろうと…相手によってその扱いを変えるなどという事は、少なくとも、この一般業界ではあり得ない事なのだ…! 

 誰のための「象徴」なのか? 誰のための「気遣い」なのか ? 一方で憲法改正を叫び、一方で憲法違反をなじる、野党(自民党)の矛盾…憲法の現状…時と場合によって変わる、官僚主導・政治主導のご都合主義…何故、それだけで政治利用なのか? ならば、過去にあるさまざまな外国首脳との接見の違いは何なのか、何のための特例法なのか? 何をもって区別・差別するのか? 特に(日本に限らず)今の子供たちは、さまざまな「差別感」に対して、とても敏感だ。(最近の愛子様悲劇、等々…)
 (それを思うと)もし、この自分がこんな渦中に立たされたとしたら…! (はっきり言って)これほど
「有り難迷惑な心遣い」はなく、「孤独な立場」はないと思うに違いない…!

 何故なら…これらの事
(接見拒否)は、時が過ぎれば…全ては日本国民の象徴・親の立場(=野菜・果物でいえば種。人間の体でいえばお臍<へそ>。)にあられる『天皇責任』として、(太平洋戦争開戦同様)未来永劫、世界中の(専門家の)人々によって語り継がれ、『日本の歴史的事実の汚点として残り、都合よく利用されて行く事には間違いないのだから。
 (
これは中国側にとっても同じだと思う。国の代表にありながら拒否された事になるのだから、公的にはもちろん、個人的にも打撃だ。)
 (当時・その後の
朝日新聞には…副主席は、定刻よりかなり早い時間に皇居に到着され、かなりの緊張感でもって待機しておられたという、エピソードが掲載されていた。)

 
『日本人の正義感』というのは、とうの昔から知られている事であり、認められている事であり、そのため、他人(他国)の「個性」を軽視するのは、単一民族の一つの弱点とはいえ…そんな事ではない…そんな、その場・その場の正・不正を究極の課題と捉えていては! 突然の来襲などであればともかくも ! 
 思えば、こんなところにも、日頃の…
官僚制度(=旦さん制度・現場無視の事務的対応)に甘んじ、任せっきりの自立出来ないままに歩んで来た、私たち日本人の姿が表われているのかも知れない。

 あえて言わせて戴ければ…沢山の伝統的年中行事・宮中行事が存在すると言われる中で、
皇室・国民双方の立場において、実質・必要とされるもの、検討を要するもの…これらを再検討する事の方が、何より先立つ問題とはならないだろうか(=皇室の自主性の尊重)海外の人たちのためにも、早く、その事に気付かなければ。

 思うに…ではない、(自らの判断から生まれる)目の前の正・不正に心を奪われ、親心でもって世の中を見渡す事が出来ないという…そういう事情の積み重ねから来るものなのだろうか…折角の正義感の中に溶け込ませ、何故、もっと広く世の中のために役立てる事が出来ないのだろう…いずれにしても、わが子を切り捨てたりしない親である神様に似るのには、日本人として、まだまだ、もっともらしい弊害が、いっぱい待ち受けているようだ。 

 私には、あの有名なフランスの作家ヴィクトル・ユーゴーの原作『レ・ミゼラブル』(ああ無情)の小説が、何かの折に(節目・節目に)浮かんで来る…ジャン・バルジャンは、確かに一個のパンは盗んだこの追い詰められた世情…規律・法律…物質的価値観(地位・名誉…)のみが尊重される、まだまだ、こんな横暴な世界がどこかに残っているという、証しなのだろうか。

 また、新約聖書にあるよく知られた、マグダラのマリアのお話にしても…
神様(イエス様)は、(私たちから見て)王道・正道を歩んで来たと思われる人間よりも、(私たちから見て)悪道・覇道を歩んできたと思われる人間を選ばれ、彼らの中にこそ真実がある
と仰った。人間、窮極に置かれた時は…「形の納得」よりも、「心の納得」を求めるものであるという、証しなのかも知れない。
 

検察審査会の存在

 市民らで作る、あの「検察審査会」

 官僚社会にあって…生まれるべくして生まれた、庶民の期待の込められた新組織ではあるけれど…
 しかし、その人たちはあくまでも
人間であり、神様ではないのだから、哀しいかな、その人たちが絶対とは言えない。
 しかも、官僚組織をきっぱりと廃止し、その上で立ち上げられた、
市民のための組織であるならともかくも…

 思えば…「中立」だとか、「公正」だとか、「権力に立ち向かう
」だとか…最後の切り札としていつも利用される、これらの言葉を分析してみても…
 その結果が・その目的が、未来的に見て必ずしも
庶民のためのものに終らない場合もあり…
 それどころか…月日が経ち…制度が定着化し…気付いてみれば…
事件の当事者たちはいつの間にかメディアから忘れ去られあとには、検察審査会の存在彼らの苦渋…だけが大きく目立ち・関心の的に置かれ…言わば「親の立場」に置かれたはずの彼らの方が、逆に社会からの同情を受け…結果、官僚組織の責任分担をさらに減らし・カムフラージュし、表向きを変えただけのファジー(曖昧)なものに終る場合もあり…逆に、難題増幅される…!

 これは言い換えれば…公的機関をより複雑
拡大させるだけの後手・後手作戦の一つでしかなかった…という事にはならないだろうか。
 一つ・一つの事件を冷静に・慎重に…というよりも、一律に・十把ひとからげで物理的側面(=いかにして白状させるかという、スキル的側面)からばかりを重要視し・ズルズル・ズルズルと追い詰め…やった・やっていない…やった・やっていない、という… その立場と権力に頼った・無慈悲な
目的のない追及追及の繰り返し…!

 被害者を
納得させる事・それ以上に…加害者を悔い改めさせこの世にあるうちに如何にして社会復帰をさせ・その方向に導き・未来につなぐのか…何より、良くも・悪くも主役はあくまでも事件の当事者であり、検察や検察審査会ではないはず…!

 検察とは…(今さら、私などが取り上げる事ではないけれど) 一つの事件の当事者(被告人)のその事件に対する執着がどれ程のものだったのか…計画的か・突発的か・長い間の環境に対する怨念か…!?
 
 病院のお医者さんに希望を託すのと同じで…また、(例えは悪いけれど)飼い主のもとで育った犬猫と、放置され・行き場を失った野良犬・野良猫の違いとでも言おうか…それを見い出すのが、検察の役割なのでは…!?

 少なくとも…
小説ドラマにもあるように…事件を引き起こすその究極の・その極限状態に置かれた時の…加害者の深層心理に辿り着く…これこそがプロの技であり・使命であり、加害者の未来を決定付ける、唯一の希望であると思うのに…! たとえ綺麗ごとをと思われようと、これこそが、大きなその存在目的ではないだろうか。

 何より、こんな情報化社会であれば、隠そうに隠せない…事件の当事者だけではない…周りの身内、姻戚関係…彼らのその後の人生にも、さまざまな形となって影響を及ぼす事だろう。
 
 (過去に…日本中を震撼させる、或る事件が起きた。犯人を追い込み・彼を説得するために…マスコミに登場した、あの母親の姿 ! 事件解明への対応を、法律・政治ではなく・肉親の情に頼るという…! 事件は解明したのかも知れないが…あの時の・あの無念さが、今でも私の中に、ありありと残っている。)


 例えば、おとぎ話時代劇などを見ると…日本物には、「が悪をくじき、めでたし・めでたしとなって、おしまい」といったものがほとんどだけれど…
 例えば
韓国物などには…それだけではない、「たとえ悪をくじきはしても、彼らには・彼らなりの事情があったのだと、さらにその悪側の一人・一人にも心を配り…そこで初めて、物語は終結する…登場人物すべてを幸福にしなければ、ドラマは終わらない」…とても奥深いものが感じられる。

 とはいえ…

 例えば
日本民族は、その優雅な言葉や表現で・その美を示すのに対し…
 
韓民族は…内からの強靭なパワーでもって、訴えかけてくる。

 
桜の花は、花冷えという強烈な寒さの後に、パッと華やかに咲いて、アッという間に散る…枝も見かけの硬さの割には折れ易い。 (ちなみに…あの花冷えという極寒は、お産の時のあの陣痛に当たるものなのかも知れない…どうだろう ? )
 
ムクゲは、真夏の太陽の下で、一〜二ヶ月も咲き続け、繊維質で夏の花だから、枝も見かけの柔らかさに反して、(素手では)ちっとや・そっとでは折れそうもない、グンナリとしてしつこい。ムクゲを「無窮花」と書いた何かを見かける事があるけれど、案外、これが正しいのかも知れない…窮まりの無い花木。よく国道の両側に、このムクゲの植わった所を見掛ける事がある…自然災害に強い、根深く・窮まりの無い、この「繊維質」を利用したものなのだろうか。

 
も・ムクゲも、個性豊かで人目を惹く、それぞれの大切な国花

 だから、ここには…

 良い・悪いではなく、その民族の個性・特性…また事件の内容にもよると思うし…そういった表面的ではなく、何かもっと根源的・
創造の原理的根深いものが隠されていて、単純に批判し・語れる問題でない事は判るけれど…

 しかし、それにしても…今の日本の行政・メディアのあり方・構造…には、素人の私たちでさえも目を覆いたくなるような、一方的・官僚的…また刹那的(せつなてき)と言おうか…あまりにも表面的・形式的打開策に頼った、不快な出来事が多過ぎるような気がしてならないけれど…そう思うのは、私だけだろうか。

 それは日本国に限らない…アメリカによる『核保有・武器保有問題 』も同じだと思う…

 春夏秋冬…そんな不安定な・曖昧な世界状況・生活環境の中で暮らさなければならない、庶民感情…一日・一日の生活環境こそが大事だと思うのに、それらの
「人間としての最低保証」は無視され…一方的な正義感でもって、各国を区別・差別し…必要だ・必要でない…必要だ・必要でない…と、まるで自然の中を生きる動物のように、警戒心・闘争心だけを重要視し・強要する、民族・国家体質。

 結果ばかりを追及し…何故、これらは起きるのか !? という、物事の『原因』・『起因』を考えない。

 旧約聖書には…神は、わが子人間を霊長とする全ての森羅万象を、に創造された…とあるけれど。 
 この広い地球上で…
「善」とは、日本人の考えるような、またアメリカが考えるような…そんな単純な構造のもとに創られたものなのだろうか。


 過去にも、そのため「政治」という肝心な事からは外れ、国民によって選ばれた大事な人材をいともたやすく排斥し・育てて来なかった史実がいっぱい存在する、この日本。日本の政治が今一つ、流動的で自立出来ない原因は、もっともらしい、こんなところにもあるのでは !? 

 為政者までが…その流れに賛同し・追随し…結果、自滅する。
  
 例えば、
「ロッキード事件」を解明する事が…「リクルート事件」を暴露する事が…メディアの究極の目的とした場合、それはいかにも、ごもっともだけれど…しかしそれでは、成熟した本物のマス・メディアと呼ぶには程遠い…!

 また、
『政界の仕組み・在り方』にしても…その究極の目的とするものが、国家のため・国民のためではなく…昔から繰り返して来た…あくまでも「我党維持のため」「我党復活のため」という事であれば…一見、それは常識のように・美徳?のように思えるけれど…また、政党維持がなされなければ、何事も始まらない事は判るけれど…

 しかし、それぞれのその目的とするものは、あくまでも『施政・実践の結果』にあるものでなければならず、その時代・時代の理想に向かっての
『政治改革』を中心としたものであり…後にも・先にも、それ自体(=事件の解明・暴露)が究極の目的であっては、それら(=政界・マスコミ)が存在する事の意義が半減し…むしろ、弊害となるのではないか!? それらの繰り返しの結果が、今の日本の姿ではないだろうか!? 

 事件の解明・暴露の繰り返しが、逆に足手まといとなり、ますます、目的達成(=政策の実践)からは外れ・遠のき…混迷だけが残される…「
小善は、時には悪」と言われる所以(ゆえん)も、こんなところにあるような。

 やはりすべては、
マスコミ在り方捉え方、その資質に掛かって行くのだろうけれど。

 (かつて
再臨のキリストも、日本を指して仰っていたように)
 海外先進国
のような、二大政党制を目指すには、まだまだ程遠いものがある、という事なのだろうか。


 改めて思うけれど…「検察審査会」を置かなければならない「検察」というのは、いったい、何を目的とした存在なのだろう ?? 

 繰り返しになるけれど、「赤信号 みんなで渡れば怖くない」時代は終わった。組織・官僚に依存する狭義の時代も終わった(=頼ってはいられない時代・それ自体が崩れて行く時代)
 
国民(為政者マスコミも含めた) 一人・一人の個性・能力を結集し、国家を・世界を支えて行く時代。この自分の本質はいったい、どちらにあるのか…本当に、本気で考える時代・問われる時代に入ったと思う。


 そして、そんな時代はすでに始まっているのであり、
善くも・悪くも…それは今のこの、組織・形式に塗り込められ・刻々と迫る時の変化にも気付かない、表社会…善くも・悪くも本音で語られる、ネットを代表とし・武器とした、裏社会…のそれぞれを通して、ご他聞に漏れず、この我が国でも徐々に現われつつあるようである。

  かつてはにも・陸地にも恵まれ、この上ない環境にあった、日本。減反政策による後遺症…基地問題に揺れる、沖縄の海…今後はどうなって行くのだろう

 
政府にしても、
マス・メディアにしても…相も変わらず、入口論争に終始し

 例えば…
「基地とは?」 「その目的は?」 「その歴史と今後の必要性は?」 「21世紀を迎え…武器戦争・
マスコミ(理念)戦争の区別・分別」。

 
「思い」があるから、物事が発生する。理念の結果によって、戦争が起きる。何もないところに戦争は起きない…など、何故、もっとグローバル・客観的に考えようとする人たち(指導者)が、一人もいないのだろう !? 

 の日本は、『自然界』がなおざりにされ、自然の原理に無知なまま、『人工の世界』にあまりにも捕らわれ過ぎているような気がしてならない。本当に…まさか!? と思わせるような…何が起こるか判らない時代! 「世界は 一家族」の中で、『母親国家』の立場にあるこの日本をこれ以上、さまよえる子羊にしないでほしい。「天使長国家」(=人間を守る神の公僕・公務員)に頼ってばかりいないで(アメリカ自体のためにも)、そろそろ、自立しなくては。

 例えば、
自立した・戦争を目的としない・人災・戦争の何倍・何十倍もの威力を持つ天災に備えた・グローバリズムに立った、連合・協力隊のような…?

地方とは? 自治体とは?

  思うに、何か問題が起きた時、マスコミは何故、いつも、まず地方・自治体ではなく…即・国家責任へと事を飛ばすのだろう? 地方・自治体は何のために存在するのだろう? 地方メディアは何をして来たのだろう!? 

 
「 ( 現場は関係ない…結果に対する、中央からの評論・正論を伝える事がそのなりわいである…) 」

 
という事なのだろうか? 

 過去にも、怠慢・逃避のため地域・国家を滅ぼした史実がいっぱい存在する、この地球上だけれど(=減反のまま…人口減少のまま…)。地方の現場の実態を無視した、具体性に乏しい中身のない入口論争に終始する、悪い癖。右にならえ…高みの見物。これは政府の・
マスコミの体制そのものに問題があるからなのだろうか。

 政府・
マスコミは、日本全体としての人口とか人口密度…○○政策…大企業を対象・中心とした…事ばかりを十把ひとからげで唱えるけれど…もはや、『具体的政策』なくして、この日本の危機を乗り越える手段など存在しないのでは!?


 ずっと以前のお話になるけれど…ある日、町を歩いていたら、小学生のグループに呼び止められ…

 「この、○○町を発展させるのには、何が必要だと思いますか。」

 
と、質問された事がある。
 ちょうどその頃、「地方人口の減少」の事ばかりをやたら考えていた時期で、この質問には何か・どこか
偶然でないものを感じ…

 
「やっぱり、この町の人口を増やす事だと思います。」

 
と、(抽象的ではあるけれど)即答で応じた記憶がある。(メディアでは、全く取り上げられない時代だった。)
 今では、そう思うのは私だけではないと思うし、この質問自体がそれを証明している。また地方に住めば…空家・廃屋を前にして…誰でも感じる事ではないだろうか。

  

 今となって思う事は…(乱暴ではあったけれど…)

 
「地方で出来る事は、地方で。」


 と唱えた、
小泉内閣…(=米100俵の精神) これなくしては、日本の未来はあり得ない。
 
家族(国家)にとって大事な事は、まず、「子供(地方)の自立」であり…これがなかったら何をしても空しいし、喜びもないし、生きて行く意味も解らない。 
 どんなりっぱな
平和外交
も・金融政策も…何の役にも立たないし、表向きを飾っただけのものにしかならない。

 
再臨のキリストは仰った…パンよりも、パンの作り方を教えなければなりません…と。

 
それを考えると、現大阪府知事・宮崎県知事の存在は大きいと思う。もちろん、なんといっても、東京都知事…また前長野県知事…名古屋市長…前横浜市長…鹿児島県阿久根市長…

 
これらの人たちの孤独の戦いに対しても、国はもちろん、何処からも何の手立ても講じられない、この日本の現状・実態。
 こんな時代を迎え、自らにとってどう見てもプラスや利益になるとは思えない言動を、何故、あえて推し進めようとするのか…その内容とかやり方云々、個人攻撃、世論調査の結果の云々…の前にもう一度、まず、その
『存在の意義と心情的価値観を再認識する』事から始めてほしい。


 大阪府知事にしても…この知事が就任直後に実感され、想像以上のその現場を見て発せられた、
 「もう、めちゃくちゃだ…
!」

 という、あの
原点の一言
重要視し・尊重するメディアは、今では一つも存在しない
 それどころか…実践はまだこれからという段階で、その
原点・基本は無視し…だからといって、代案・対案を提供するのでもない、その場・その場の事情・実情の違った比較しようのない先人の体験談ばかりを尊重し取り上げては(前後の見境なく)遠巻きに批判する事ばかり。
その思い
原点はここにある(=もう、めちゃくちゃだ…!) という…今の若者たちの心を代表したような、この一言誰も考えようとしない。
 府知事
は、そんな日本の未来のための、神様からの警鐘に応える事の出来る、最初で・最後の旗手なのかも知れないのに…早くも単なる○○派・△△派の一派のように扱い、中心課題を無視し…一時の・時世の問題・課題を取り上げ・引き合いに出しては、一段高い目線から悉(ことごと)く追及する…芽吹いたばかりの折角の芽をそんな事で摘んでしまってほしくない。 府知事の立場に立って、共に謙虚に・親心でもって接してほしい、と願わずにはいられない。(=の現場ではなく、本物の現場に立って!)
 
「改革」と言えば、金・税率を上げたり・下げたりする事しか考えない為政者の多い中で、根本課題に挑み、改革というよりも、革命を目指すという! 中央政府以上に、といっても過言ではないような…全国民がその行方を見守っている、重要・貴重な存在だ。

 学校問題にしても…今の社会現象限界に達したために起きるさまざまな混乱であるのに…子供たちの本物の未来のための大局観でもって捉えようとはせず、その場の・目先の人情のために、即・世論調査でもって世論を味方に取り付け創案・試案に対しても、即・反論する…! 自らが取り挙げておきながらそれを否定し…現状維持。また取り挙げては否定し…現状維持…の繰り返し。結果、身動き出来ない・八方塞がりにするのは誰なんだ! と正直、思ってしまうマスコミは何故にこうも、維新の一挙手・一投足に対して、即決・即断を下すのだろう!? 
 そもそも日頃、これらの問題を、マスコミは何を目的として、スクープするのだろう !?

 こんな時代に…もはや後退・現状維持…は微塵
(みじん)も許されない世情にあって、その場・その場のゴミを片付けるだけのような命令・指示…命令・指示が(=後手作戦)、どうやって未来を切り開いて行くというのだろう !?

 
やはり、しっかりとした具体性を持った批判論、それにも増して、「勇気ある発想の転換」が何よりほしい、と心から思う。 
 国民の立場を無視した「郵政民営化見直し」問題同様、官僚政治マス・メディアの干渉によって、自然消滅…などという事のないよう、頑張ってもらいたい。 

   

 府知事『国歌斉唱』に対する姿勢が取り沙汰された。 あの若さで !? と思うと同時に…

 思えば…あの
バルセロナ・オリンピックで、水泳岩崎恭子選手が、史上最年少(14歳)で金メダルを獲得した時、君が代の流れる前で流した感動の涙は、今でも忘れられない。
 
国歌国の歌であり、私たち日本国民・老若男女一人一人の心を、平等に・公平に包む基本(親の心)の歌であり、日本国に留まらない、海外の人さえも包み込む…容の良し悪しや理屈を超えた、直感・実感としてあるものであり…流行・時世などは必要としない・求めてもいないものなのだ、という事を確信させた。
 海外で聞くW君が代W 頂点を極めた時に流れるW君が代W 物事の出発点・帰結点に置かれた時に流れるW君が代W 国歌の必要性は、国内で・一般的立場でノンビリと聞いていたのでは判らないものなのかも知れない 
 未来はともかくも、現状において、
国歌(斉唱)のない国家など、世界に通用しないだろう。

 府知事を独裁者扱いにする、マス・メディア。 府知事の言い分は…
音楽の時間に、みんなと一緒に課題曲を歌おうとしない子供…と、同じ理屈だろう
 それよりも…あの、
ヒトラーの時代に…
 「ヒットラー !」 「独裁者!」 
 
と呼び捨てにし、公共の場で・ご本人の前で叫んだらどうなっただろう !? 想像さえ付きかねる。
初めから見下しているからこそ出てくる言葉であって。 全く逆転した、今の時代。むしろ、自由・平等を履き違え、世論を鵜呑みにし、対象に向かっていともたやすく暴言を吐くメディアの方こそ、「独裁的」「独断的」とは言えないだろうかむしろ、そんな時代にある事に(=思いのままに発言出来る時代)、逆に感謝すべきなのでは…!?

 ひたすら目的実現のため、知事職を捨て・市長職を目指そうとする人間のどこを捉えて、ヒットラー! 独裁者! などと叫ぶのか…! 客観性を欠いた、あまりにも薄っぺらな発言とは言えないだろうか。21世紀の最前線を歩むメディアの発想とは到底思えない。 
 ヒトラーではない、自分自身(メディア・世論)を中心・基準に置いた、主観的感情から出て来る言葉であって。 いつも引き合いに出されるヒトラーは、むしろ犠牲者だ。

 「大阪都構想」にしても…「地方権力の争奪戦」…と述べたメディアがあった。これは正しい表現だろうか。 一度、しっかりとした公の場で、その理由を是非、聞いてみたい。

 それにしても、
マスコミは何故にこうも、『維新』の一挙手・一投足に対して、即断を下すのだろう !?  

 初めに
否定ありき、という…『否定』を基本・根本に置いた橋下批判・マス・メディアのあり方・戦後教育。否定・否定の羅列で、対案・代案が何も出て来ない。今後はどうなって行くのだろう。

 衆議院議員の池百合子氏も、その著書(もったいない日本主婦と生活社刊)の中で語っておられる
 「日本では強力なリーダーシップが求められながらも、実際にリーダーシップを振るうと、独裁的、議会軽視などと悪口を叩かれるのが常となっています。」 
 …というように。


 これも、いつの時代にも、『先駆者は捨てられる』という、一つの証しなのかも知れない。  

                                

 『減反政策』は、地方人口の減少となって、じわりじわりとさまざまな世界・世代・業界に影響を与え、そしてその、辿り辿って行く中の行き着いた場所が、今のこの日本の現状・地方の実態…どこまでさかのぼり、考えて行けばよいのやら…もはや、人間の思考を超えた次元の話なのかも知れない。

 
思えば…日本(地方・自治体があのまま、何があっても・何が起きても…時代に・また国情に左右され振り回される事なく、しっかりとした農業国としての基盤を築いていたならば(自然と共に歩んでいたならば)…難儀な…漠然とした…孤独で夢のない農業ではなく…少なくとも今頃は…もっと毅然として…活気に満ちた…日本各地の老若男女を問わない、さまざまな人たちが、色とりどりのユニークな形で農業に参加し…(=働く喜び)と(=技術とそれに見合った収入)で実感した…自国に留まらない、もっと広くてグローバルな展開を成していたのかも知れない。

 何故なら、私にはよく判る…


 
(私事だけれど)当時わが家は、「農業機械の販売」を商いとしていたから(創業は大正年間で、後年農協とは商売上はライバル関係にあったけれど、人間関係では決してそうではなく、それらを超えた使命感でもって広域に渡り尽力していたように思う)…例えば農地を耕すのに、それまでは牛・馬をその主役としていたところへ、耕耘機(こううんき)が登場した…脱穀、精米は手作業であったのが、自動に・機械にと代わって行った…これは今にして思えば、大変な『農業改革』だった事になる。

 さらに…神から与えられた
四季の国・日本の農業が、今のような先の見えない果てしなく続く「減反」ではなく・「地方人口の減少」もなく、車や道路・交通の発達も、あくまでも農業(自然)また地元産業を基軸・出発点として(それらを破壊する事なく)広がって行っていたならば…また机上の空論などに惑わされる事なく、ナントカ・カントカがんばって、心は決して農業国・日本から離れる事なく、あのまま乗り越えて行っていたならば…

 
大都市・一極集中ではない、またあの「日本の農業史」にあるような旧態依然としたイメージのものではない、時代と共にその土地・その土地の個性・産物に見合った、さまざまな農法…例えば、神から与えられた、技術ではない・他では絶対に真似る事の出来ない・その土地独特の…「朝晩の寒暖の差」によって産まれる高級ブランド米…といったような産物 が生まれ、ひたすら農業発展のための法律が生まれ…文化が生まれ…強固な経済基盤のもと…かつて昭和天皇が示されたように…もっと単純明快で…「瑞穂の国・日本」(=母の国・日本)として当然の、またもっと自然のうちに、子供たちも成長し、今のような何を目的としたかも判らない、もっともらしい知識・教養ではなく、しっかりとした信念を持った教育の中で育った子供たち(日本人に留まらない)で溢れ返っていたに違いない。こんな、(農業から離れた)一面に片寄ったような、複雑な就職事情・求職事情の時代を迎えてはいなかったに違いない。

 いつか、
石原東京都知事も仰っていた。
 「学歴は、しっかりとした目的を持ち、またそれを必要と思う者だけが持てばよいのではないか?」
 と。
 たとえ高学歴であっても…小さな事に心を配るのが苦手な人もいるし…微妙な感情が理解出来なかったり…あんな賢い人に何故、こんな事が判らないのだろう? といった場面に出くわす事もある…(社会性・応用性)。

 それにしても…今の日本の実情を思うと…かつての・一時
(いっとき)の、あの高学歴社会は何だったのか? 何のために存在したのだろう? と思ってしまう。

  (今の
韓国にも、就職事情など同じ現象が現われつつあるという…!?)

 再臨のキリストは仰った…学歴に頼る人生は、5分か10分もあれば語り終わってしまう。 しかし、学歴に頼らない人生には非常に味わい深いものがあるんだよ…と。 

 
世の中には「さまざまな社会環境」が存在する。学歴に頼ってはいられない・頼りたくないという、そんな個性を持つ人々も、ゴマンと存在する「高学歴を持たない立場で歩む」というのも、そんな幅広い社会に対応するために与えられた「一つの方法」であり、神の意図であるに違いない

 もちろん、学歴は人間の幸せのためにあるものであり、その人・その人に与えられた自由であり、動機目的さえ誤らなければ…例えば農業にも、「農業国・日本」の未来のための学問を必要とする若者たちが、いっぱい・いっぱい出現したに違いない。
 

 
また、あの太平洋戦争当時、都会に住む人たちがその難を逃れる事が出来たのは、地方疎開であり、この日本の農業があったからこそなのだ。

 
何より、人間の始祖 農耕の人…だったのだから。(旧約聖書の創世記)


 そして、漁業にしても、農業を時には同志として・時には良きライバルとして同時進行し、しっかりとした基盤に守られながら、海外との関係も、今のような余裕のない、ギスギスとした「闘争」ではなく、自信を持った「挑戦」として今以上に、もっと・もっと発展し…自国に留まらない、海外をも含めた…何より、その海外諸国の人たちのためにこそ、先導の立場に立ち、沢山の若者を動かし・引き寄せて行ったに違いない。 

 再臨のキリストは仰った…全世界を巡回して感じるもっとも差し迫った危険は食糧問題であり、海に(水素エネルギーも含めた)その解決策を見出さなければなりません…と。

 
もちろん農業同様、老若男女を問わない…そしてそれは当然のように、それら(農業・漁業)を土台・基盤として、芸能・スポーツはもちろん、観光を始めとした商業の発展・工業の発展につながって行ったのではないだろうか。何より、「人生は芸術なり」と言われるように、農業、漁業を始めとした全てのなりわいは、神から与えられた『芸術』なのだから。

 
少なくとも今のような…農業は完全無視で…当然のように若者が故郷を離れ…何より、「世界有数?の食糧輸入国」(食糧に留まらない!)などには、絶対にならなかったはずだ

 近年は、主食を
「パン食」とする人たちが増え、楽観的に構えている若者が多いそうだけれど…
 しかし、私たち日本人が
本当の食糧不足に見舞われたとした場合…その調理過程からして、物理的にも・精神的にもそんな「一つ・一つのパン作り」をするような余裕はないのであり…問題はそんな事ではない…これらもやはり、根本の・教育の過程から出直すべき問題とはならないだろうか。
 
 今のこの
海洋問題騒ぎなどは、そんな宝庫に囲まれた国であるにも拘わらず、今になって動き出すという…受身というか…怠慢というか…官僚(自治体・公務員)の…政府の…それらに対する、
油断と・そのツケが回って来たという事であるに違いない。


 日本の穀倉地帯の中心・東北地方青森県民謡『津軽じょんがら節』の一節に、こういうのがある…
 
 アー 昔日本は みずほの国よ 米はお国の 命でござる 米という字を 分析すれば 八十八度(たび)の 手数をかけて……   

 
そして、『津軽わいは節』には…
 
 米と林檎(りんご)は 津軽の命 取れよ作れよ 国のため……  

 
私たちは誤って米粒を床に落とした時、最後の一粒までも拾わないと心が落ち着かない…これは誰に教えられたというものではなく、その育った環境によって自然のうちに植え付けられたものであり…たとえ故郷を離れても…これは一生続くものであるに違いない。もちろん、お米に限らない…!
 他にも取り上げたい歌がいっぱいあるけれど…官僚さんはともかくも、お国の命も解らない政治家であってほしくない

 
そしてこれらは、「小さな政府」「大きな政府」という呼び名で語ると、今や何となく流行語っぽくなってしまい、その質感が軽くなるような気がするし…もっとそれ以前の、
国家の特性
して・日本人としての根本問題として考えなければいけない、何より、自然の海や山・河・自然の生きものたちのためにも、義務教育の時点から出直すべき問題ではないだろうか。

 
もちろん、それらを教育者に任せ、一律一辺倒に・抽象的・非現実的に叫んでいても始まらない、この農業・漁業を、全産業…工業商業、また観光事業等々…の基本根本に置き、思索模索して行くべき課題であり…
 
何より、これらの究極の目指す方向を、いつまでも地元の自治体・団体(=地方官僚)だけを中心・対象としたものだけに置くのであれば…それは自然の法則からしても、恐らく永遠に辿りつく事のない、果てしない道であり…淘汰(とうた)して行くしかないだろうと、私は思っている。


 思えば『日本国』というのは…近年、減少を辿っているとはいえ、狭い国土で人口密度のとても高い国であり、<47>という、あまりにも細かい数に行政区分されている。きっと、農業・漁業というその生業(なりわい)細やかな国民性などが主たる理由ではあろうけれど。

 
それにしても…そういった、その土地・その土地の個性・持ち味というよりも、行政として考えてみた場合…
 あの広大な
アメリカ合衆国さえも、<50+1>なのに!? しかも、さらにまたその一つ一つがあまりにも細かく組み立てられ・区分化されているという…!? 
 恐らく、その土地の・その時の権力者だとか…○○万石・領地・県境だとか…そういった古い時代の何かが…
庶民ではなく、お上・官僚を中心とした何かが…根本の土台として残り、今日に至るまで延々として引きずって来た事もその理由の一つであろう事には間違いないと思う。
 そして、その結果として生まれた格差・不公平…驚く事に、部落差別…これらは表向きを変えただけで、ナント、実質的には、21世紀の未だ放置されたままである !

 ともあれ、こんな現実を作り上げてしまった以上、何かが変らなければ、
共生共栄共義主義社会を理想とし・目指すには、あまりにも遠い! 無駄の多い! 物理的にも・精神的にも・能力的にも…もう限界に来ている時とは言えないだろうか…どうだろう !?
 
 話が飛躍するけれど…(あくまでも、行政として考えてみた場合の話だけれど)日本国に限らず世界単位で考えてみても、今の『世界の状況』は、あまりにも細かく複雑に区分化されたような…愛に国境はないというのに!? この問題は、いつか世界的規模の課題となって議論される時代が来るのではないだろうか…来て欲しい。世界国・日本県みたいな…そんな時代が !

 もちろん、現実はそんな単純なものではないとしても…でも、想像するだけで、なんだか、ワクワクするような…!  何より、そんな時代に乗り遅れる事なく、それに応える事の出来る、しっかりとした土台の上に成り立つ、日本国を考えなければいけない時代に来ている事には間違いないと思う。  
 権力だけに集中した、天使長国家
(=学問用語 公僕・公務員)・アメリカ合衆国の責任も大きい(大きかった)に違いない。

 例えば
「同和問題」などは、同和研究者が・同和と呼ばれる中で・同和を対象として徒党を組んで叫んでいても始まらない…何の進展にもつながらない。
 
「都構想」「道州制」これらを大局観でもって掲げ・実現に向かってまい進する。
 そしてその目的が達成され…そんな大局観に飲み込まれたこれらの諸問題等々も…
境界線が外され、気づいてみれば、いつの間にか消滅していたという…これが現実的であり、実現可能な唯一の方法であり、
21世紀に向かって、本物の開拓精神と呼ばれるものにつながる道ではないだろうか。 

 

 そして…何はともあれ、(神様に押し上げられながら)とりあえずはそういったように、表向きには世界的発展を遂げた、日本の姿に魅せられ…引き寄せられ…はるばるやって来たにも拘わらず…夢と現実の違いに気付かされるという、在日海外の人たちの苦しみ。

 W誘惑されて 捨てられてW
という、有名な外国音楽があるけれど…こちらから引き寄せておきながら、いざやって来ると、泥棒やら殺人者に仕立て上げてしまうという…子供(外国人)の犯罪は、もちろん、親(日本人)の責任であり、これらはすべて長い間の積み重ねによる、官僚政治・マス・メディアの責任だ・怠慢だ、と言ったら乱暴だろうか。

 
拉致問題にしても、また在日外国人によるさまざまな犯罪にしても…母親国家・日本に、もっと早くから、しっかりとした国際感覚に乗っ取った受け入れ体制…
 
『スパイ防止法制定促進国民会議』。
その本質は敵の侵入を防ぐという単純な感覚のものではなく、双方の立場に立ち・考案された、高度な組織。閉鎖・差別感のない・世界に通用する・親の立場に立った、規律・法律が出来ていれば、スパイ天国・日本などと呼ばれるような、こんな悲惨な情況は生まれなかったのでは? 
 物事が起きてしまった後で、どんな立派な攻略・策略を練っても、それは、もはや遅きに失した感は否めないし…このマイナスの地点から出発しなければならない、数倍・数十倍にも増幅されたものに懸ける、心的・物的エネルギーの難儀さ・大変さがどんなものであるか…! 
 それを思うと…
日本国土に定着はしているけれど…老い先を思うと、子供たちの未来を思うと、心はまるでWジプシーWのように果てしなく揺れ動き・さまようばかりの、私たち日本人… 
 (
…もちろん、本物のジプシーと呼ばれる人たちとは別の、単純な意味のもの。)

 
共生・共栄・共義主義の時代を迎え…例えばそれぞれの国の自然条件において、(日本のような恵まれた国はともかくも)自然エネルギー開発を求める国々に対して(特に水素エネルギー)…自国を中心とした海外批判などは机上の空論であり、否定・否定…拒絶・拒絶ばかりでは、物事は進まないだろう。何より、自国の安定のためにもならない。


 神は、その復帰摂理の中心において…
 『拉致』という、あまりにも耐え難い、また不可思議な課題を抱える人間を見つめながら、その解答をじっと忍びながら待って来られた。


 人類創造の時…
 その
成長の途上にあるわが子を、サタン(キリスト教用語)に奪われてしまった、神様

 拉致家族の方たちの思い
…神様の思い。神はその事をこの方たちを通して…また母親国家・日本国を通して…わが子・人間に悟ってほしかったのかも知れない。

 また、広義の歴史的同時性
として振り返れば…
 あの
「ユダヤ民族・イスラエル民族の悲劇」(=家族を失い…国を失い…)に共通した何かが、ここには隠されているのかも知れないと、私は思ってみる。


 「若気の至りという言葉もあるように、誰にも過去はある(たとえ政治家であっても)…それより問題は…この今、自国にとって・世界にとって何が大事か、優先すべき喫緊(きっきん)の課題は何か、今のこの混迷は神様から与えられた、ひたすら、前進のための意図的な試練に外ならない…と考える者だけが生き残るだろう。」

 という事だろうか。 きっと、そうだと思う。
歴史のポイントを見れば判る…ユダのように…洗礼ヨハネのように…そして、キリストのように。

      官僚の異常な世界  

 こんな目の前の正・不正ではない、「夢」「欲望」に対する人間の本能・本質」を、机上ではなく税金の現場に立った・大局観でもって練り直しをしなければならない、『国民のための税制度見直し』の最中にあって…
 
 夢のない、非生産的な政治家の個人問題をメディアのトップに掲げさせ、(今しかないと)その権力でもってしつこく追いまくる、検察庁

 
にも拘らず「日本相撲協会事件」 
『官僚の異常な世界を、今日に至るまでご存知なかったなんて、絶対に信じられない。
 それとも…これらは「官」と「民」の
社会性・社会常識の違いなのだろうか? 主観に満ちた狭量な司法の現状…官僚社会…いったい、前途に何を目的として存在するのだろう !?
 
 
郵政改革の時にも浮上し、その発端となった…何故、「公」でなければならないのか? という。 こんな時代を迎え…社会主義国・民主主義国でのスポーツのあり方・位置付け組織のあり方への疑問…本当の自立とは何かという、現代社会に問われる、最も重要な事。 (参考の一つ…アメリカ映画 『ロッキー4 炎の友情』)
 
 そしてまた、裁かれた人間を抹殺するのではなく、裁かれた人間に明日はない・再生はあり得ない…のではなく、何より、『法律』というのは検察という組織のためにあるものではない、未来の人材を生み育み、
真の自立へと導く…
国家・国民のための法律であり・検察であり・司法であり。
 目的のない、
検察のための検察権力
が拡大されて行って、いったい、何の役に立つというのだろう? それだけが目的であるならば、例えば
民営調査機関・探偵業等々との違いは何なのか
何故、公的機関でなければならないのか何より、今のこういった矛盾だらけの、国民の大多数にさえ不可解なマインド・コントロールされた社会常識を、未来の子供たちにどう説明し・どう引き継がせ、自立の道へと導いて行くのかという、根本の問題。日々、膨大な税金を使って(税金に頼って)、あなたたちこそ、何をやっているんだ、と問われても仕方のないような。今の子供たち・若者の暴言・暴動の根本原因は、価値観の違いからくる、こんなところにあるのでは!? もしそれが、本当の自然の理(人間の本能)に適(かな)ったものであれば、あそこまでの抵抗・反発は起きないのでは、と思うけれど!? 
 本物の時代
を迎え、今こそ、その事が問われているに違いない
。今しかないのかも知れない。

 ちなみに、日本で最初の公務員は『警察官』だったと、地元の元国会議員さん(亀井久興氏)から聞いた記憶がある。
 そういえば昔の、少なくとも現場の警察官(お巡りさん)と呼ばれる人たちには、もっと、情とか臨場感があり、今のような事後処理・事務的・官僚的ではなかった。他にも、保健婦(師)さん、助産婦(師)さん…常に自ら現場に出向き、その家族の一員となって奔走しておられた。


 思えば…私が、『検察批判』を取り上げた当初…
 
「ナント、(個人の立場・分際で)大胆にも、検察批判をするような人間がいる !?」
 
といったような内容の記事を、たまたま目にした事がある。どうだろう ? それが今では当り前の庶民感覚になっていて、マス・メディアも、(表向きには)当然のような格好で、『検察批判』をやり始めた。

 
『朝青龍関』が取り上げられた当初もそうだった…他の力士への批判は表向きのお義理であり(舞台裏では、殺人事件まで起きていたのに…)、(本音では)すべてが朝青龍攻撃に集中した。これも、日本のメディア
の現状だ。
 

 
メディアといえど、それぞれに立場があり、書きたくとも書けない事情がそこにはあるのだろうけれど…
 でもそれでは(未来的に見て)、一時逃れ以外の何ものでもなくなってしまう。
 
何より、「可視化」だとか「捜査能力の拡充」という、正・不正の追及だけを目的とする、後手・後手の心理作戦・スキル作戦ではなく、
 
「検察庁など必要としないような、そんな社会を造ろう。」
 という、
先手の心情作戦こそが大事なのでは? 
 人間をはじめとするすべての森羅万象は、神に似せてに造られている…(単なる正ではない)…それが道理に合わないものであれば、たとえ他人には見えなくとも…自ずと消えていく(=天宙の土台がそのように成されている)という、創造の原理からしても、自然の成り行きであり…裁く側にも・裁かれる側にも通じる、自然の法則なのだから。(旧約聖書の創世記)

 そしてまた…例えば世間(世界)の基準・平均から見て、一家(日本)の外見がどんなに豊かで・整っていても…家族の中に「ガン細胞」がたとえ一個でも見つかれば、家族全員が普通ではいられないし、決して幸せとは言えない。
 お上が集い、鼎談
(ていだん)を繰り返してみても…日本の現場の底辺にある難問が、果たして解決されるだろうか…!? 
 豊かな時代に逆行・矛盾した、このガン細胞
そのものの正体を暴かない限り。

 思えば…
ガンとは何だろう?  私たちは当然のように、
ガンは敵
! としてしか捉えて来なかったけれど…!?
 もしかしたら? 
バラバラになった私たち(家族・国家)の心を一つにする
根本に返らせるための意図的・意識的なものであり…また、ガン(罪)は化学(法律)だけをもってしては治せないもの、と言われる所以(ゆえん)もここにあるのかも知れない。その究極にあるものは決して、マイナス志向だけの存在ではないのかも知れない。

 ならば…科学の世界がさまざまな研究に尽力すると同時に、そういった
情緒的問題の重要性にも早く気付き・本気で対応すれば、それらは(=社会の矛盾から生じるストレス)、いやでも自然消滅して行くものではないだろうか? きっと、そうであるに違いない患者が増える一方と言われる、この日本で、ガンはその事を知らせるための使命を持った…むしろ、犠牲の立場(味方)に置かれた存在(使者)なのかも知れない。


 その現場に立ち、必死な思いで地動説を肯定した、ガリレオは、当時の常識として当然のように軟禁された…今で言えば、世の中を惑わすガンのような存在」だったのかも知れない。
 しかし現代に、街頭で必死になって
天動説を唱えたらどうなるだろう? 警察に警告され、病院行きは必至だろう…なんと、気付いてみれば、180度の転換だ
 
 何より、世の中が天動説を中心として回転していたら、
神のは等しく届かない事になるのだから、情緒的にはもちろん、物理的・科学的にみても、地上の全ての森羅万象は、とっくの昔に
消滅していたに違いない。もっと、自然の原理を大切にという、結論だった。 

 
「世界の常識は 天宙の非常識」となるような日が訪れるのも、そう遠くない日の事かも知れない。思い切った発想の転換というか…諦めないでおこう
!

          

 もっとも、今のこの現実・現場…これらの気の遠くなるような問題は、私のような人間の論ずるところではないのかも知れない
 この官僚によって既に初めから組み立てられ・設定された、
巨大な社会構造を前にしては…

 例えば、一議員や、一組織において、政界・財界との「癒着の問題」などが生じ・暴露されたとしても、こんな巨大構造の中で歩むには…たとえ総理大臣であろうと太刀打ち出来ない、それはあまりにも無力でちっぽけな存在として当然のように起こり得る問題であり・成り行きであり…

 何故なら、それ(巨大構造に始まり・巨大構造に終わる) を通さずしては、為政者として前にも進めないのであり、一個人を攻めても始まらない
 そもそも、これらの問題が生ずるというのも、元はと言えばその仕掛け人の存在…びくともしない、巨大組織…にあるのであり…同時にこれも、今となっては、一公務員、一官僚の個人的な問題などではない事も確かで、彼ら個人を責めても始まらない。
 何よりこれら(官僚主導)は、その厳しい現場・現実の中を生きる私たち
庶民の実感こそが証拠・証明であり、私たちこそが、その証言者であり、マインド・コントロールされた中で、その事に気づかないだけなのだ。

 例えば近年、「
認知症高齢者」を狙う、財産被害が増えているそうだけれど、元はと言えばこれらはすべて、官僚から得た知識を基本とし・利用したものであり…いかに庶民が、また(だま)す人間さえも、官僚という言葉に洗脳されているかが窺(うかが)えるというものであり…客観的な目でみれば、仕掛ける側も・引っ掛かる側も、どちらも同じ被害者に変わりはない…私たちに言わせれば、
 
「もっともらしく、カッコ良く狙う」 「頭から悪と知りつつ、狙う」
 だけの違いであり
一種の無法地帯となんら変わりない。たとえ不祥事が起きたとしても、表向きの形式・形式(お詫び・お詫び)ばかりが飛び交い、現実は何も変らない・変ろうともしない。何か、あまりにも膨大なものが根源的課題として隠され、潜在している。

 
すべての道はローマに続く…ではないけれど…「国会への道」さえも、官僚につながっている…国会討論の仕組みそのもの・原稿の基本…これらは官僚中心の上に作成され・進行するといっても過言ではないような。
 たとえ「官僚批判」をするような国会討論が展開されたとしても、そのルーツを辿れば、それさえもその仕掛け人は『官僚』であるという(カムフラージュのため)…政治家を操
(あやつ)っているだけだ。 
 国内問題にはすき間なく干渉し…国外問題(聖域外)には不干渉の政治家任せ・
マスコミ転嫁…お山の大将(=社会性・応用性の欠如)。
 政治家にしても…その事に気づいているような、いないような。もちろん、政治家になって初めて気づく人たちも大勢いるだろう。 政治主導というのも…このシステムが続く限り、表面上はともかくも、まだまだ夢のまた夢…果てしないものがあるように思われる。

 一番厄介と思うのは、表面上は政治主導を叫びながら、水面下では、官僚主導に納得(諦め?)しながら歩んでいる、為政者であり、
マス・メディアなのかも知れない。

 私たち庶民には・国会というのは、討議の場というより、一つの決められた
「ショー」としてしか映らない。その内容も、
事の前にマス・メディアによってすべてが明かされ・予想されるものばかり。年中行事の一つとして、ありのままに・そのままに流れる映像…
 したがって、国民・
マスコミのその評価も…肝心な事からは外れ、それぞれのそのパフォーマンスの如何によって下される、というような(失言・暴言を対象にした…?)。 そんな今の国会の現実。海外ではそのあたり、どうなっているのだろう !?

 何か、
良い手段はないものか。例えば、もう一度、原点に戻って…
 
私たちが子供だった頃・学生だった頃の、あの
生徒主導で行われた、『生徒会』のような…(とりあえず自分を脇に置き)もっと具体性・実現性の伴った、その本番にこそ、全身全霊を注ぎ込むというような、もっと新鮮な・画期的な…そんな何か方法は…!? 官僚と重複しているとしか思えない「内閣の構造」そのものを、政治主導に重きを置き、もっと、
簡素化させるとか(=官僚の解体)…!?

 くれぐれも…もはやこれらの収拾は、
天の采配
に頼るしかない…などという事のないよう、ただ・ただ祈るばかりだ。
 

公務員のあるべき立場 

 新約聖書にも…
 『
公務員にはなるな。彼らは…
 
と、当時の公務員のあり方について述べられている箇所がある。もちろん、公務員の存在そのものを指し・否定しているのではなく…

 それどころか、逆に…公務員が、いかに大事な立場…人々の基本的人権を守り・指導する、その出発点・基本点にあるものであるかを説いているのであり…それぞれ個々の問題などではもちろんなく、国家としての問題であり…

 しかし…人間として生きる上で、歴史的にもその現場・現実においては、洋の東西を問わず根源的課題をいっぱいに抱えている事は、今の世界の情況・実情が示している通りであり、その立場を
私物化し・逆転させてしまったのが、この現実世界なのだ、という事。
 (旧約聖書の創世記に始まる…復帰摂理歴史=やり直しの歴史に登場する、<一部>
天使<=公僕・公務員>。最重要ポイント。)

 この追い詰められた世情にあってWわたしはアルパであり オメガであるWとあるように…
 神様というのは…いや、それにも増して、それらの根源的問題・課題を解明された、
再臨のキリスト
という存在は、やっぱりスゴイなと、改めて思う
 
 
世界中のいろんな人たちを取り上げ…たとえ有名人・著名人であっても…それらの人たちと比較検討するような、そういう存在ではない、という事だ……。

                                     (2001年〜2011年 )                             

                                                  (このページの先頭へ)